「コロナウイルスからシリンクスへ」

この「ソロコンサートへのメモ」と題した集中連載も3回目になろうとしているわけだけど、やはりこの辺で世界中が直面している前例のない事態について触れないわけにはいかない。


コロナウイルスの感染拡大をめぐる、多くの死者を含む惨状についていまや知らない人はいない。誰もが直面しているだけに、それぞれの人にとって微妙に意味合いを異にする事態である、とも言えるかもしれない。


感染の拡大に伴って表れる政治の失策や、経済の失速、人々の愚行について「この事態より以前にあった問題や傾向が顕在化しただけだ」というのもわかる気がする。音楽家たちにとっては「音もなく」出来した出来事だけに、いっそうそんな印象が強いのではないだろうか。


日本では、2月の初めにクルーズ船「ダイヤモンドプリンセス号」が横浜に寄港し、乗客の感染と検疫が報じられたニュースからすでに2ヶ月。


「終息」(収束)という言葉はリアリティを失い、「現実離れした楽観主義」とでもいうような違和感をまといはじめた。


感染は世界中に広がりを見せ、すでに疲弊していた経済システムにさらなる負荷をかけている現状を鑑みるに「元どおりの日常が戻ってくる」ということが考えにくくなってきたからである。


だから「コロナウイルスによる停滞した日常」が誰にとっても初めての経験であるのと同じく、感染が縮小に向かった後もまた、前例のない生活に移行していくんではないかという予感をみんなが持っている。

「停滞」のなかで我々はどんな音楽が出来るのだろうか?

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今回のコンサートのプログラムにドビュッシーとヴァレーズを入れたのは「現代音楽」をもう少し大きく「20世紀音楽」として眺める視座に立ちたかったからである。


一方、他のプログラムを「80年代以降の現代作品」という極端なバランスにすることで、ドビュッシーとヴァレーズもクラシックな文脈とはまた違った聴かれ方をされることを期待したのである。


実は今年度の東京芸大フルート科の入試課題が「シリンクス」だった。楽譜通りに音を並べるのは難しくないが、20歳に届かないような若いプレーヤーたちにとって、これを「音楽」にするのは至難の技である。


和声を軸にした音楽を、モーツァルト流のシンプルな理屈で説明できるのは後期ロマン派までで、先輩たちの和声から飛び出したドビュッシーの音楽のなかでも際立って無調的で、しかもフルートの旋律線1本のみの独奏という、きわめつきに「抽象的」な音楽を、荒削りでもいいから形にできるか?
というのはなかなかハードルの高い、秀逸な課題だと思われた。(難しすぎたかもしれない)


「抽象的」(自分はモーツァルトのソナタであれ、ジョン・ケージの前衛音楽であれ「抽象」であることに変わりはないと思っているのだけど、そのことはまた別の機会に。)とはいえ、「シリンクス」は、ロマン派的な身振りやニュアンスも色濃く残しているところに個性がある。モーツァルトのような和声とは別の理解の上に立ちながら、ロマン派的叙情を豊かに表現できるか、というところの難しさがポイント。


「シリンクス」の自分なりの音楽的理解をあえて言葉にすれば「進化しかけの姿」である。
陸に上がりかけている魚のような、腕を退化させるかわりに羽を獲得しかけている恐竜のような。


「シリンクス」の元ネタになっている神話からしてまさしく、葦に姿を変える妖精の「変容」の物語なのである。


激烈な痛みや困難を孕みながらなお、変化を求める精神のなかに佇んでいる美しさを「シリンクス」に表現できたら、と強く思う。


もっと言えば今回選んだ曲全部がそうなのであり、「停滞の季節」の先に、フルート1本で「進化しかけのモンスターたち」を次々に呼び出すことができたら、聴き手たちをダイナミックな精神活動に引き戻せるかもしれない。


それができたら、それこそが「萎縮した精神を解き放つ」という芸術の社会的役割の「元どおりの姿」なのであり、かくして停滞の呪いは社会の末端からゆっくりと解かれていくのではあるまいか。

・・・・・というのは理想です。
いまのところ。
まずは皆さんの上に薫り高き健康があり続けることをお祈りします。モンスターたちを連れてまた皆さんの前に現れることを夢見つつ。