「一柳慧;In A Living Memory」

今や、音大の入試やコンクールの課題曲としても頻繁に聴くようになったこの曲を、だからといって敢えて取り上げているように思われるのも嫌なので本当は迷ったのである。
しかし、この作品は「楽器の役割の転換」という、とても現代的なテーマを含んでいて、今回のプログラムの中に並べてみると異彩を放つ。
伝統的に横方向に流れる流麗な旋律線、というのがフルートという楽器に対するとても強いイメージだったのを、フルートが苦手とする低い音域を含む同音連打で、徹底的にパーカッシヴでミニマルな、機械的で現代的な響きを作り出すよう、この作品は要求しているのである。
もともとフルートへの要求としては禁じ手だった、このような大胆で高度な要求の作品になった理由は、これが神戸国際フルートコンクールのために作られた委嘱作品であるということでもある。現代作品としての「楽器法の拡張」というテーマが、コンクールという場での「プレーヤーへの挑戦」というテーマとうまく重なったのだと思う。
「無伴奏フルートの演奏を打楽器的、機械的音楽に変身させる」という困難さのみに焦点を当てる、というシンプルな洗練がこの作品の個性で、そう考えて譜面を眺めてみると書き込みの少ないすっきりした譜づらである。
冒頭にテンポの指定とともに記されている「Vigoroso」という楽想の指定を辞書で引くと「活力に満ちて」とか「はつらつと」とか出てくるから、若いプレーヤーたちは「vivo」だとか「con brio」のようなありきたりな指示と混同しがちだけど、vigoroso(英語のvigorousも同じく)という言葉はもっと激しいニュアンスを含む。
この曲の場合は、クラシックの美意識が推奨するようなやり方からはきわめて例外的な、「フルートの低音を強く、アタッキーに発音する」という、ある意味暴力的といってもいいような響きが暗示されているように思えるのである。
「機械的」という言葉を重ねてしまったが、これは一方で有機的で原始的な、抑えがたい衝動の爆発のようでもあり、そしてやはり壊れた機械が暴走するようなパワーと無慈悲さを兼ね備えていたい。
2001年にこの曲を初演したのはサントリーホールでの一柳慧さんの個展のことであったが、それは神戸のコンクールより前のことだったので、コンクールの実行委員長だった金昌国先生に「そういうことをされては困る」と、えらく叱られたのを覚えている。
自分としては一柳さんから頼まれた演奏を引き受けた以上やるしかなかったのだけど。
しかし金先生の主張は正しいのである。
「演奏の前例のない作品を楽譜だけを頼りにして演奏を組み立てる」というのがコンクール委嘱作品としての狙いであり、また、プレーヤーがその技能を競う、基本的な部分でもあるわけだから。