200字限定のツイッターの投稿ならこんな文章になるかもしれない。

「①演奏メンバーを厳選して演奏の質と精度を担保する
②高い技量をあてにできないメンバーでも企画とダイレクションで内容を担保する
ふたつのスタイルが考えられるが、実際には場合に応じて両極の間を自由に大きく振れる闊達さが理想」
自分マターで企画をを立てるときに、最近感じるリアリティーについての見解、といったところである。
先日、「それぞれのドビュッシー」という公演を終え、僕が芸大生あるいは芸大を卒業して間もない若いプレーヤーたちとのコラボレーションというかたちで演奏会を企画したのは2016年以来3回を数えることになった。
今回の「それぞれのドビュッシー」では4人の若手プレーヤーのうち3人がほとんど初めての作編曲に挑んでくれた。
勿論これだけでは聴き手を意識したプログラムとしては心もとないのだけど、ドビュッシーの曲と組み合わせ、更に作編曲も「ドビュッシーを巡って」という「しばり」があったおかげで、ほとんど作曲初体験というような未熟な作品すら相互作用的に働きあって魅力的なプログラムに組み立てることができたと思うのである。
すべて自分のアイデアと企画力が力を発揮したとまでは言わないが、根底のところには冒頭に書いたような確信があったと思う。
言葉を変えれば「洗練された高い演奏技術だけでは面白い演奏会は成り立たないし、企画力先行だけでは演奏の魅力を削ぐことになる」ということだろうか。
そういう意味では芸大卒の若いプレーヤーたちというのは、振れ幅のちょうど真ん中あたりにいて、こちらとしてもとても勉強になる。
基本的なことはだいたい押さえていて、大抵のことには対応できるが、技術的に未熟なところがあるのも否めない。一方で、精神的に柔軟で、面白そうなことや勉強になりそうなことには先入観抜きで飛びつくことが出来る。というような若いプレーヤーの特性をうまく導くことができれば十分面白いものは作れるのである。
こういう考え方をするようになったバックボーンにはアンサンブルノマドを率いる天才ディレクター佐藤紀雄の仕事ぶりを20年以上にわたって横目で見続けられたことがある。
「のりおさん」(とメンバーたちは呼んでいるのだけど)は、質の高い演奏と、質の高い企画の両立という高い目標を掲げながら、基本的には自分自身もアンサンブルノマドのファンであり、自分が「聴きたい」と思うことをプログラムして聴くことを心から楽しみ、そのようなありかたが結局はある種の批評ですらある、という風に20年ノマドを率いる経験の中から達観するに至った人なのであり、日頃から僕がぜひ見習いたいと思っているスタンスである。
もうひとつ、2009年に「森山開次作品集」で共演して以来2017年のシーズンには佐渡島と東京・小金井公園での薪能にはじまって年末のNHKでの特別番組まで、何度となく共演した観世流能楽師津村禮次郎さん。
重要無形文化財(こう呼ばれることを津村先生自身は避けたがってるようだったが)で、伝統的な能楽の世界では限りなく自由に動けるはずの津村先生はしかし、それに飽き足らずバレエやコンテンポラリーダンス、演劇、果てはガムランとも積極的に異分野コラボレーションに挑んでいる人なのである。
共演した番組のインタビューで「面(おもて)と装束をはずした時の生の能楽師の肉体で何ができるか見極めたい」というふうに語っていた言葉は、間違いなく本心からのものなんだなと、数少ない共演経験からもひしひしと感じさせてくれた。
そんな津村先生のスタンスをはたから見ていて、ふと思い至ったキーワードが「ホスト」
昨今SNS時代で、いわゆる「クラシック業界」近辺も、「ネットリテラシーに長けていて」「見た目の良い」若い世代にアドバンテージが大きく傾いていることは否めないが、彼らのめあては、一様にいかに自分を大きく、カッコよく見せて「ゲスト」然と振る舞うか、ということに集約されているように見える。
佐渡島に薪能をやりに行った時、数十人のメンバー一行の交通の手配、宿の手配、食事の手配を津村先生は自分一人で淡々とこなしていた。そしてその薪能本番、月に向かって謳う津村先生と、踊り狂う森山開次さんを後ろから見ながら思う存分フルートを吹くのは至福だったのである!
芸事の究極は「ホスト」になり得るかどうかだと思った。そのような本番にプレーヤーたちを導き、観客を夢幻の世界に旅させて魅了するという「ホスト」である。
思えばノマドの「のりおさん」も同じことをやっているのである。
お客さん気分の「ゲスト」でいるうちはまだまだである。
ということで、冒頭の話に戻り締めくくると、僕も今年50歳になるわけで、「ホスト」になりきるのはまだ力不足かもしれないけれど、あるべき姿は見えてきてるね。
って、話でした。


写真THE FLUTE編集部