閑話休題、Brian Ferneyhough;Unity Capsule
前回は日本音コン作曲部門の方針変更で演奏審査がなくなったことをネタに、「音楽」と「楽譜」の間の繊細かつ、矛盾をはらんだ奇妙な有りようについて出来るだけ「自分なりの」言葉に置き換える試みをするつもりだった。
普段はあまり意識しない、自分自身の演奏へのスタンスも浮き上がって見えてくるんじゃないか、という期待からだったが、結局「楽譜だけでは音楽は成立しないのだ!」といった、月並みで青臭い結論になってしまったようで反省している。
そんなものは少しでも実践の場にいる人なら誰でも知っていることで、今更自分が言うようなことでもないのである。
辛抱強く寛容な読み手の皆さんにはお詫び申し上げたい。
我ながら、なんという凡庸な表明のために字数を費やしたことか!
しかし一般論を離れて個別の作品にあてはめて考えてみれば、楽譜の上での表現ひとつとっても、それぞれに違った個性の面白さが際立ってくるはずである。
また、演奏を「楽譜を音に落とし込んで行くルーティーン」という風に説明した言い方も、別に否定や批判をしてるわけではない。
雲をつかむように思える仕事を楽譜という形に変換し、反復練習という型にはめてわかりやすく理解するのはとても合理的なルーティーンである。「抽象表現を身体感覚に落とし込むルーティーン」と言い換えてもいい。
ところが、際立った作品というのはこの「合理的ルーティーン化」と言うプロセスにすらハードルがある。
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Brian Ferneyhough作曲するところの現代音楽ははまさしくそんな作品たちではないだろうか。
ブライアン・ファーニホウはNew Complexity(新しい複雑性)と言われる作曲の一派の先駆的存在といえる。
「複雑性」と言われるだけあって、「Unity Capsule」の譜面を一瞥した時の印象は、稠密に書き込まれた音符や指定の数々、独奏の作品でありながら2段にわかれたスコア(場所によっては3段!)などで、真っ黒けの譜面づらに、どんなプレーヤーでもだいたい最初は引いてしまう。
20代の自分は「チャレンジ!」というモチベーションのみでこの作品の演奏に挑んだものだった。
「このものすごい譜面を是非とも音にしてやろうじゃないか!」というわけである。
そこで、まるで迷路を覗き込んだような第一印象から一歩下がって、改めて譜面を眺めてみる。
音の高さと、さまざまな特殊奏法を指定する符頭は相変わらずバリエーションに富んだ様相で目も眩むようだが、時間軸を縦に割っていく「リズム」のレベルでは、独特の個性的なやり方をとっていることがわかる。
たとえば、4/8の小節全体をカッコで括って、「25:24」なんて書いてある。
これはつまり、
8分6連符×4=24
の中に、無理やり25個の玉を入れる、ということだ。
さらにその「25」の玉の3つ目から7つ目までの5つの玉をまたカッコして「8:5」といった調子。
「連符」を多用して、繰り返される「再分割」そして(あるいは)(さらなる)「細分割」というのがこの作曲家の(少なくともこの時代の)特徴的なやり方である。
この曲に挑戦した時の自分には、ここにジレンマがあった。
こんなにも複雑に指定されたリズムをどこまで正確に再現できるものかということに。
村上春樹の小説「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に、マッチ棒を使った「百科事典棒」の話が出てくる。
アルファベットの文章を数字に変換する。
その数字を小数点以下数10桁までの数値に置き換えた、その長さの分だけマッチ棒の端から正確に計測して刻み目を入れる。
その刻み目の座標(=マッチ棒の端からの長さ)が一つの項目を説明する文章になる。
そういった刻み目を無数に入れることで、マッチ棒による辞書が出来上がるというわけだ。
あくまでも理論的には。
果てしなく正確に計測する技術と、同じくらい正確に刻み目を入れる技術があれば。
「百科事典棒」は実現することのない「思考実験」として面白がることができるが、実際に演奏されることを目的とした楽譜になるとどうだろうか?
そしてさらにハードルが高いのは、このような複雑なリズムの記譜法は、プレーヤーの技量に対する挑戦や記譜法の実験ということだけが目的ではない。 この入り組んだ複雑さは、先史時代の原生林のようなニュアンスに富んだ豊かな響きのバリエーションを作りたい、という動機から来ていると思われる。
正確さだけの、パズル的で機械的な、無味乾燥な演奏に終わっては失敗なのである!
ファーニホウは、作曲の段階では高度に数学的な手順を経ることで、無限のジャングルを「ソロフルートの十数分の音楽」という小さな枠に押し込める魔術を実現した。
そういう意味では「Unity Capsule」というのは「言い得て妙」なネーミングである。 興味をそそる響きたちが偶然ではなく、ギリギリの整合性を充たした上で、極めて限定された時空の中に結合されてひしめいているわけだから(その整合性を得るためにこのような複雑な記譜法が必要だった、とも言える)。
これを演奏として実現するのは(更なるたとえ話を許してもらうなら)、「高すぎるところにゴールリングのあるバスケットボール」をやるようなものだと思ったものだった。
そのようなゲームでは、ボールがゴールネットを揺らす回数は激減し、プレーヤーどころか審判にすら「実際にゴールリングを通ったかどうか」定かでなくなってしまう。
そうなると、「ゴール付近までボールが飛んでいけば得点とみなす」というような、妥協のすえのローカルルールが横行するようになるのではないか?
近似値でよしとするようなゲームには、どこまでいっても大きな達成感が伴うことはないので、最初の意気込みに反して「Unity Capsule」は「何となくやらなくなった曲」となってしまった。
複雑な楽譜を演奏してみせる自己満足のためだけなら、他にやるべきことがあるんじゃないだろうか?
と考えるようになっていったのだ・・・・・。
しかし思えば、自分はこの曲の魅力をきちんと評価するのを忘れていた。
プレーヤーとしての自分が「これでいいのか?」と疑問に苦しみつつ演奏し、情報の森のような楽譜の中を駆け抜けるとき、聴き手たちの耳には、美しく興味深い響きの瞬間が何度も訪れていたことを故意に無視してはいなかっただろうか?
「百科事典棒」をイデア論の一つの例として出したわけだけど、「Unity Capsule」もまた、極めて限定的な時間と空間の中に映し出される、美しき世界のメタファーをめざしていたことを。
人間のプレーヤーたちによる演奏に、ある程度の誤差とバイアスが現れるのはさけられない。
自分の不完全さを自覚しながらなお、作品の美しさに近づくことはできないか?
この作品においては「譜面の厳密性」はプレーヤーたちを眩惑する、謎めいた罠。
「最大の近似値」を目指しながら、極彩色の響きを再現することもできるのではないだろうか?
ファーニホウは「Unity Capsule」の世界を楽譜の上に固定させ、そのかたちをフルートでなぞろうとする無数のプレーヤーたちの影が不安定に揺らぐ。
音楽のバトンが作曲家からプレーヤーへ、そして聴き手へとつながって閉じるリンクは、こうして何度も再生されてはまた拡がっていく。
