7月15日

2000年の映画「POLLOCK」
ずいぶん前にDVD買って、ちょくちょく観てるんだけど、好きなんですよ。

ジャクソン・ポロックっていかにもアメリカ的な人物の「光と影」って感じの映画だけど監督で主演のエド・ハリスのアプローチが徹底してて、その光と影のコントラストがすごいのだね。
アルコール依存や精神不安など、問題もいっぱい抱えてたジャクソン・ポロックのみっともない、ダメなところも容赦なく表現しててすごくアーティスティックな映画なんだな。

*劇場行ったって話じゃなくて、買って持ってるDVDの話ですね。

美術の中心がヨーロッパからアメリカに移行した時代の話を、9.11直前のアメリカのチームが制作してるのがなんだか皮肉に思えてしまうのです。


7月30日

久しぶりに帰省。
「のど自慢」が好きだった祖母にプレゼントした映画「のど自慢」。
その祖母も2年前に亡くなり、テレビの脇にぽつねんと放置されてたDVDを回収して見てたら泣けてしょうがない。

コンクールなどで選ばれた限られた人たちだけが評価を享受する現在のクラシック産業のあり方を批判するニュージーランドの作曲家クリストファー・スモールの「ミュージッキング」という本があり、今のクラシック業界のあり方を全否定するような内容に反発する人も多いんだけど、「音楽というものは元々はみんなが歌ったり踊ったりすることに意味合いを見いだすものだった」という主張にはとても賛同してしまうのだな。
「ミュージッキング」ではアフリカの人々が音楽と関わる有り方にヒントを見つけようとするのだけど、「のど自慢」は日本的な「ミュージッキング」のあり方そのものなんじゃないのかな、と思ってしまう。

のど自慢なんてダサい、と友達に言われながら家出するお姉さんへのメッセージとして「花」を歌う女子高生、マネージャーの反対を押し切ってパッとしない自分を見直すために出場する演歌歌手、自閉症気味の孫の面倒みながら「上を向いて歩こう」を歌うおじいさん、とかね。

普通の人たちのドラマ。

普段コンサートでむづかしい現代曲やるときも、ほんとは普通の人たちへのメッセージになりますように、と思いながらやってるのです。

この映画「のど自慢」主役級の人たちもいいんだけど、俺が魅せられてしまうのは脇のひとたち。

松田美由紀、尾藤イサオ、佐々木すみ江

佐々木すみ江いいわ。

62年の「おとし穴」も88年の「ゴンドラ」も、そんでこの98年「のど自慢」も絶品ですわ。

娘婿の大友康平が歌う姿を、家の居間でひとりでテレビで見てるんだけど、鐘がふたつしか鳴んなくて大友康平がずっこけた瞬間「バカだね」ってなかんじでテレビを消しちゃう、つーね。

「熟年ツンデレ女優」としてはS級。
尾藤イサオは「内面に不満を抱きながらひたむきに頑張るんだけど報われない俳優」としてS級。

*これまたすでに持ってるDVDの話ですな。夏は旅行があったり森山開次ー津村先生チームとの薪能の準備で映画館行ってられなかったんですな。

クリストファー・スモール「ミュージッキング」の主張に大筋では同意するんだけど、どんな形の音楽文化であれ「評価」を避けて通れない、という事実に触れてないところがイデア論に過ぎるんじゃないかと僕は思ってしまうんですね。

「のど自慢」の世界は、みんながおおらかに歌を楽しみながら、一方で予選通過をめぐる悲哀があったり、本選の鐘の数に一喜一憂したりってところがリアルなんだね。と、言いたかったんだと思います。


8月1日

尾藤イサオふたたび。

先日の投稿で尾藤イサオのことを「内面に不満を抱きつつひたむきに頑張るものの報われない俳優」と評しましたが、また別の言い方をすると「情熱を抱いてひたむきに生きる愛嬌ある男が、その熱き思いを吐露する瞬間の演技が際立つ俳優」とも言える。

「のど自慢」のマネージャー以外では、伊丹十三の「お葬式」で、亡くなった大滝秀治の葬儀で死を悼み、涙ながらに思いを吐き出す甥の茂、ってシーンがまさしくそれだった。

映画なんか見てて、オールマイティな役者さんもいいけど、自然と役柄が決まってくる人って面白い。

スティーヴ・マックイーン。これは有名「脱走俳優」
「パピヨン」まだ観てへんのね。早よ観たい。

尾野真千子なんかは有名になる前の方が役に傾向があった気がするなあ。すなわち「地方都市に住んで、八方塞りの状況でパンクしそうになってるシングルマザー」みたいなやつ。

俺が一番興味深いのはレイフ・ファインズ。
「育ちが良く、極めて善良でもある男がとんでもなく間違った状況や環境に置かれて破滅に向かう」俳優。

「シンドラーのリスト」のナチス将校しかり「クイズ・ショー」の大学教授しかり「ナイロビの蜂」の外交補佐官しかり「レッドドラゴン」の殺人鬼しかり。

こんだけピンポイントに特殊な役柄がまわってきて、しかもそれがバッチリハマる人っておる?

だから正直「嵐が丘」はイマイチだった。
だってレイフ・ファインズのヒースクリフはテーブルマナーばっちりな感じがするんだもの。
そういう人が荒れ狂っても、「不機嫌で嫌な感じだな」と思ってしまうし、またジュリエット・ビノシュのキャシーがその「ヤなおっさん」の肩を持つところが腹立つんだな。

これは俺の個人的見解なので、ぜひ異論反論聞いてみたいところだけど、嵐が丘のヒースクリフのキャラクターって「野卑な男の哀愁」だと思うのですね。
いかがでしょうか。

最後は特殊なやつ。
「俳優としての次元の高いチャレンジとして「クズ男」を演じようとするのだけど、その意識の高さ、真摯さ、才能、イケメンぶり、すべてが逆のベクトルを向いてしまい、とてもクズ男には見えないアンヴィヴァレンツ俳優」
藤原竜也。

「クズ男俳優」としての彼を評価する向きもあろうかとは思いますが、俺には彼がなりきればなりきるほど「偉い人だなあ」とリスペクトしてしまい「クズ男」には見えないのですよ。

皮肉なもんすな。

*これも役者さんに関するつぶやき、みたいなやつで映画館行けてないわけですね。

金曜ドラマ『リバース』|TBSテレビ

TBS金曜ドラマ『リバース』の番組サイトです。原作・湊かなえ×主演・藤原竜也、共演に戸田恵梨香、玉森裕太(Kis-My-Ft2)、小池徹平、三浦貴大、門脇麦、市原隼人ほかでお送りする極上のヒューマンミステリー。“僕の親友を殺したのは誰だ?”

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TBS.CO.JP


8月5日

皆様、たくさんの誕生日のメッセージありがとうございます。

みたいなこと投稿するのも初めてやね。

「仕事やってまっせー」みたいな記事に対する反抗で、最近映画のレヴューみたいのばっかり投稿してんだけど、それで「映画お詳しいんですねー」って言われんのも違うと思うのね。

何しろ73年制作のこの「パピヨン」みたいな名作を今になって初見なんだから。

シネフィルの風上にも置けんよ。

しかし観てよかったね。
こんな映画現在撮れんだろうか。
大きい予算で当時押しも押されぬ大スターのスティーヴ・マックイーンと、才能がブリブリ音立ててるみたいな若きダスティン・ホフマンを共演させる新しいテーマの映画なんて。

44年を経て、この大作映画を観るに、幾つか連想が働く。

ひとつは「存在の耐えられない軽さ」
全然違う映画だけど、なぜか思い出してしまったのは「二人の人間の間の葛藤が、現実の一人の人間のジレンマを表現してるようにみえる」つー点ね。
あくまで自由を求める危険人物のパピヨンと、おとなしく服役してりゃ奥さんが金の力で救ってくれると、地獄みたいな状況の中ですら泰然と構えようとするドガ。
「プラハの春」の政治的嵐の中、人生を楽しみまくりつつ筋を通すトマシュと、彼に憧れつつ本質的に受け入れられないナイーヴなテレーザ。

共通するのは現実にはこんな極端な奴らはいねえだろ、って思うけど、みんな両極のあいだを揺れ動いてんだよね、って点で。

もう一つは1996年の劇団黒テントのお芝居「KAN-GAN」

シンガポールのクオ・パオクンの脚本で、中国の宦官で提督にまで出世した人が世界中を旅するんだけど、旅の途中で皇帝の怒りを買い、祖国に帰れなくなる、っつー話

宦官になるときは自分の家族も捨てなきゃいかんから、祖国から見放された彼は、まさに「家もない、国もない、性別もない」さすらいの身になって放り出されるって話ね。

パピヨンが2度目の脱走の末に辿り着く原住民の集落での夢みたいな日々、って云うのが「KAN-GAN」での宦官提督が辿り着くアフリカの天国みたいな島にそっくりだったのね。

こんなん思うの俺だけか。

*やっとDVDとはいえ未見の映画を見たわけですね。でも見て良かったですよこれは。

印象的なのは真っ暗な独房に2年も放り込まれて狂気に向かう中見る幻影。

地平線上に並ぶ9人の裁判官「パピヨンお前は有罪だ!」

パピヨン「違う!俺は殺してないんだ!」

裁判官「お前の罪状は殺人ではない。自らの人生を無駄にしたことだ!」

パピヨン「・・・・そうか。それなら有罪かもしれない・・」

と、裁判官に背を向けるパピヨン。

なんという絶望!

でも最後には逃げ出して自由人になるパピヨン。見送るダスティン・ホフマンの表情がたまらんのですわ。

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8月11日

「島々清しゃ」
DVDが発売になり、うちにも来たので再見。

これに関しては客観的なレヴューは不可能なのですね。
何しろ1号試写のとき(それもすでに1年半前!)に「よーし、客観的なキビシー目で見たるぞー」と思ってたのに、映画の冒頭で慶良間諸島の海と空がばばんと映った瞬間、島の記憶が蘇ってきて「だあー!客観的は無理だー!」と早々に諦めてしまったというねw。

この映画、トレーナーとプレーヤーとして企画段階から声をかけていただき、1本の映画にどんだけの人々の思いと苦労が詰まってるもんか、勉強させてもらった貴重な経験だったのですが特筆すべきは女優陣。
安藤サクラさんは既に「堂々たる」って形容詞がふさわしい、人生を捧げてることを自他共に認める映画女優だし、お母さん役の山田真歩さんも、また子役の伊東蒼ちゃんも既に演技者として余人をもっては果たせない仕事をし始めてる人たちのアンサンブルになってるのですね。

特に伊東蒼ちゃんに関しては、彼女の唯一の主演作を観れる映画が、この「島々清しゃ」ってことになりますな。

「1本の映画にたくさんの人の思いが詰まってて」と書きましたが、この映画が他の映画と一線を画しているのは、音楽監督でもある磯田健一郎さんの渾身の脚本による、ってところでしょう。

「音楽をめぐるハートフルな人間ドラマ」と説明することもできますが、観ていただければそんな言葉ではくくれないことがわかってもらえると思いますよ。

「ナビイの恋」そして「楽隊のうさぎ」のDNAを受け継いでるドラマでもあるのですね。

*じつはこの日、監督の進藤風さん、音楽監督磯田健一郎さん、出演もしてた沖縄民謡の金城盛長さんが出る発売イベントが渋谷であってお邪魔したんだけど、発売イベントにもかかわらず完売しちゃっててDVDが一枚もない、という椿事があったのですね。

でも来てた人は金城盛長さんの歌をたくさん聴けたので納得したんじゃないでしょうか。


8月21日

ジャック・タチ「プレイタイム」
1967年制作

監督のジャック・タチを破産に追いやった膨大な規模の映画。

内容はナンセンスなギャグやユーモラスな行き違いといったシーンが脈絡なく延々と続いていく感じで、ほぼ全てのシーンがモブ(群衆)シーン。
よく見るとクラブで食事したり踊ったりしながらぶつかったり、酔っ払って転んだりする大勢の人々の一人一人に緻密に演出が施されてるのがわかって面白かった。

ディズニー映画の「ファンタジア2000」では似顔絵画家のアル・ハーシュフェルドがキャラクターデザインをしたラプソディーインブルーがアニメになってるんだけど、「プレイタイム」も大勢出てくる人たちの個性や癖が、まるでそれぞれの似顔絵のようにユーモラスで人間的に描かれてるんだな。

今日観に行った映画館「ユジク阿佐ヶ谷」は「五日物語」に続き2回目だったんだけど、「五日物語」の時は俺の斜め前に顔とハゲ頭を真っ白に塗って黒いマントに身を包んだおじいさんが座ったので「お、サプライズイベントあんのかな」と思ってワクワクしてたら上映が終わっても何も起こらず彼が一般の客だったことがわかり、別の意味でワクワクし始めたというね。

*久しぶりに映画館行けたわけですね。

この映画、プロットは全く重要ではなく、それぞれの場面を構成するためのアイデアだけが命、ってタイプの特殊な作品だったから、ちょっとでも退屈なシークエンスが続いたりすると見ててしんどかった。

しかし見応えのある場面もたくさんあって、こういう方法論の映画に私財を投じる監督、素敵ですね。

主役のおじさんを自分で演じてました。

ジャック・タチ映画祭

ようこそ!“タチ・ワンダーランド”へ!緻密に計算された息をのむほど美しい小宇宙。「ジャック・タチ映画祭」

JACQUESTATI.NET


9月5日

ジム・ジャームッシュの新作「パターソン」

ある意味期待通りの映画。

静謐な日常が淡々と過ぎていくように見えて、主人公パターソンの鋭敏すぎる感性が語りかけてくるのは、周到な仕掛けがあるからなのだなあ。

と感じました。

*昨年からこの主演のアダム・ドライバーを何度見たことか。スターウォーズのカイロ・レン、「沈黙」の神父。旬なんですね、今が。

でもこの「パターソン」が彼の良さが一番出てます。

ま、主演ですから当然かもしれませんが。

作品全体が完結した寓話世界みたいな作りになってるんですね。危険なことの起こらない。

だから可愛いすぎる奥さんと瑞々しい感性ほとばしるパターソンの夫婦がありえないくらい素敵に思えても受け入れられるんですな。

その役どころにアダム・ドライバーはバッチリはまってた、ってことですね。

最後に日本人の長瀬正敏が出てきて、英語で「詩を翻訳するのは、レインコートを着てシャワーを浴びるようなもんです」というのを字幕で見せられて腹抱えるっつーね。

paterson-movie.com

PATERSON-MOVIE.COM


9月28日

渡辺紘文監督「七日」

曜日のテロップが出て、同じような毎日が繰り返されるというミニマルな手法は隣のスクリーンでやってる「パターソン」とびっくりするような奇妙な符号なんだけど、まったく違う実験的映画。

モノクロでセリフは一切なし。

年老いた母親と暮らしながら厩舎で働く男。

生活音と自然音とシューベルトだけが語りかけてくる。

って映画。

*今年見た中では最も実験的な作品だったと思います。淡々とした生活の散文的な映像が延々と続くというね。「賛否両論」といわれるのも分かる気はする。俺は平気ですけどね。

 とはいえ、8時過ぎまで仕事した帰りにレイトショーで見たから途中、気失いそうにはなったけどw

大田原愚豚舎作品 七日 公式サイト

大田原愚豚舎作品『七日』の公式サイトです。

7DAYS-FOOLISHPIGGIESFILMS.JIMDO.COM


10月5日

ちょうど1週間前に見た「七日」がひっかかり続けてて「面白いのが観れるかも」って予感もあり、同じ渡辺紘文監督の「プールサイドマン」を見る。

「単調で寡黙な散文的長回し」というのはもう経験済みなので結構すんなり入ってくる。渡辺監督の映画に慣れてくると、ミニマル的反復の中に変化が現れるタイミングや手法に監督らしさがあるのがわかってきて面白くなってくる。
「七日」と違ってもう少しテーマが絞られた作品だったので経過を追って行きやすい。

「現在われわれのすぐ身近には、このような狂気を隠している人物がいる」ということのリアリティを見せてくれてる点でかなりの衝撃作だった。

渡辺監督の映画、音楽も含めた「音」の使い方がとても繊細で特徴があると思うのだけどこの「プールサイドマン」途中からリゲティのピアノ曲が出てきて「ん?」と思ってたんだけど、ラストシーンからエンドロールにかけてショスタコービッチのジャズ組曲「風」のオリジナルのワルツが流れたところで「監督、「アイズ・ワイド・シャット」見たんだな」と確信した夜でした。

*「七日」を見た経験を踏まえて「プールサイド・マン」を見たのが良かったのだと思うな。

「七日」で一言も喋らなかった監督が、今度は一言も喋らない男の相手役でべらべら喋りまくる、というのがおかしかったです。

映画制作集団 大田原愚豚舎第三回作品 映画『プールサイドマン』の公式サイトです。
10月25日

気がついたらやたら疲れとるし、バタバタしとるし。
というんでやっとの思いで見た感じやけど「サーミの血」

残酷で哀しく美しく。

北欧サーミ族への迫害や差別が最大のモチーフになってるのは間違いないんだけど、控えめながら容赦ないメッセージになってるところが素晴らしい映画でした。
ことさら暴力的な表現に訴えなくても、味方になるべき人々の冷たい拒絶を横目に見るだけで社会の壁がどれだけ圧倒的か伝わるというね。

少女エレ・マリャが年老いて、誰に対しても自分を偽り絶対的孤独の中に生きる姿が最も強いメッセージに思えました。

*タイトルにつながる「血」のシーンがとても控えめながら象徴的に出てくるのが「うまいなあ」と思ったんですね。

主人公エレ・マリャはとても芯の強い人なんだけど、自分の真の姿を偽って生きなければいけないのはどんな強い人にとっても耐えられないくらい辛いことなんじゃないのかな、というのが俺の見方でした。

2017年9月16日(土)より全国順次公開 北欧スウェーデン、知られざる迫害の歴史―幻想的で美しい自然の大地ラップランドに、サーミの歌が響く

10月26日

「アトミック・ブロンド」

ただただ、シャーリーズ・セロン見たいがために、ですわ。

もっそい好きなんすねシャーリーズ・セロン。

この人の最大の魅力は、艶やかな姿から一転して猛り狂う獣みたいになれる、その大きな振れ幅だと思うのですね。
で、その獣になった時にふと現れる女性らしい人間的な優しい表情というのにやられてまうのですねw。

個人的には「獣」になりっぱなしの映画ー「モンスター」とか「マッドマックス」のフュリオサ隊長とかの方が好みで、正直言うと「アトミック・ブロンド」はあんまり趣味じゃなかったですね。
80年代、東西冷戦末期のベルリン、暗躍する各国スパイたちの駆け引き。音楽とファッションとアクションシーンで五感にガンガン訴えるみたいな。

それでも後半修羅場みたいなアクションシーンで青あざと血でどろっどろになって頑張るシャーリーズ姐さん素敵やったわw。

シャーリーズ・セロン大好きになったきっかけの映画が、トミー・リー・ジョーンズとダブル主演してる「告発のとき」。

これは「艶やか」もなし「獣」もなし。

湾岸戦争からの帰還兵たちに起こった殺人事件を捜査する刑事って地味ーな役柄。

同僚たちに疎まれながら被害者の父親の味方になって、事実を解明していく渋い演技。

トミー・リー・ジョーンズの重厚さの前にも全くかすむことなくて、「なんて懐の深い女優さんだろう」とおもったんですね。

*シャーリーズ・セロンに似たものを感じる役者さんとして「バットマン」のクリスチャン・ベールがいますね。堂々たるスターの顔以外に演技者として多彩な顔を見せてくれるって点で。

ぶっとんだクリスチャン・ベール見たかったら「アメリカン・サイコ」あるいは「マシニスト」

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』シャーリーズ・セロン×『ウォンテッド』ジェームズ・マカヴォイ×『キングスマン』ソフィア・ブテラ×『DEADPOOL 2』デヴィッド・リーチ監督で贈る、スタイリッシュ・スパイアクション!

11月11日

「リュミエール!」を観に、東京都写真美術館へ。

なんとなく記録映像のようなものかと思ってたら、50秒限定の映像の中で計算された演出と構図で「作品」を作るという発想で、後の映画人たちがみんなリスペクトすることになるというリュミエール兄弟。

またこの短い映像108本を再構築して90分の映画にしたティエリー・フレモーさんの愛情にも感激しました。
とにかく楽しかったです。

*「作品」とは言え、出演者は普通の人たち。一番最初の「工場の出口」こそ誰もカメラなんか気にしてないんだけど、カメラというものが認知され始めると、今では考えられないくらい、みんなカメラをバリバリに意識して不自然なくらい硬直した振る舞いをする、というのがおかしかったすな。

あのマーティン・スコセッシも絶賛!「映画の父」リュミエール兄弟の世紀の偉業が現代に蘇る!|映画『リュミエール!』公式サイト

11月15日

「ソニータ」

アフガニスタンで古くからの暗黙のしきたりになっている強制結婚ー事実上の人身売買の実態を舌鋒鋭く、またエネルギッシュにラップに乗せて糾弾するソニータ。
彼女自身もまた会ったこともない男に売られそうになっている。

ドキュメンタリなんだけどドラマ寄りの作りになってる気がした。「人生タクシー」を思い出す。キアロスタミ以来のイランの映画文化なんだろうか?

「社会的不正義と戦う芯の強い少女」って意味では「サーミの血」といろんな意味で比較してしまった。

学校の先生が結局のところ助けになれないところは同じなんだけど、最後まで寄り添って味方になってくれようとするソニータの先生は人間的で温かなのですね。

サーミの血のエレ・マリャの先生は冷たく突き放すだけ。
そもそも人間扱いされてない、って残酷な状況を抑えた方法で表現するという点が秀逸な静かな映画だったから、「味方になるべき先生の冷淡さ」というのが際立って感じられた、ということかな。

*ソニータが売られることで家族が手にする金額は9000ドル。それを何に使うかというと兄の結婚の費用。

なんという偏った循環経済。

そういう社会の中では女だけではなく結局のところ男も抑圧的な空気に抗えず萎縮してるように思うけどな。

11月18日

イオンシネマの特別上映企画でクストリッツァの「アンダーグラウンド」観れる、というので行ってきた。
20年前に劇場で観て「すげえ映画があるもんだ」と度肝を抜かれて感動したのは覚えてたけど、細かいところは忘れてたりしてたから懐かしく、また新鮮でもあった。サントラ版は持ってて、こういう音楽を「クレズマ」と呼ぶこともその時知った気がします。

しかし20世紀の名作映画でも十指に入ろうかという映画が特別料金1000円で観れる、っつーのに客は俺入れて3人・・・・。

クストリッツァは新作の「オン・ザ・ミルキー・ロード」がまだギリギリ都内でやってますね。
これと「エンドレスポエトリー」、早稲田松竹が思い出しみたいにかけてくれてる「海辺の生と死」辺りが年内に観れたら今年はそこそこ観れた!って感じでしょうか。
あ、あとルイス・ブニュエル3本立てというマニアックな上映の前売券も買ってあるのでしたw

*「アンダーグラウンド」戦争に巻き込まれる人々の残酷で数奇な運命。しかしほとんど不謹慎といっていいようなブラックユーモアで描かれてるので、悲惨になりがちな話に救いをもたらしてるようにも見えます。

ある種の諦観と言ってもいいかもしれない。

「家族」「友情」「戦争」といった大きなテーマですが、一番骨太なテーマは「祖国」

クストリッツァ監督の祖国、ユーゴスラビアはもうないのですね。

エミール・クストリッツァ監督作品 『アンダーグラウンド』

12月6日

「エンドレス・ポエトリー」
88歳のホドロフスキー監督の精神的な遍歴をたどる極彩色の自叙伝にして、世界と人生への讃歌、といった感じの作品。
これだけの規模の作品を作るだけの感性と創造力を持ちながら人生に達観したところもあって、というのが作品全体のトーンなんだな。

酒場のシーンで客たちがみんな眠ってる、というシュールな演出。
普通の人たちが眠らせているような繊細極まりないレベルの感性の次元でも、詩人の鋭敏な精神だけは覚醒してるんだぞ、と言ってるようでした。

2017年11月18日(土)より全国順次公開 前作『リアリティのダンス』から3年、舞台はサンティアゴへ―。ホドロフスキー監督が、観る者すべてに送る“真なる生”への招待状。
*随分宣伝してたやつです。
88歳ホドロフスキー監督の「生きろ!」という強烈なメッセージでした。

12月16日
「幼な子われらに生まれ」「海辺の生と死」

今日は早稲田松竹で二本立て。
1本目「幼な子われらに生まれ」

「淵に立つ」や「沈黙」での画面全体にギラギラ漂う禍々しい邪気がウソみたいな、再婚相手の連れ子との心の隔たりに苦悩する心優しきパパ、って役どころの浅野忠信。

離婚と再婚を繰り返すことで生まれる血の繋がらない複合家族の姿。
いま風に思い悩む大人と子供の男女、家族同士をまたぐ血縁と愛憎の絆。
といった感じの映画でした。

映画『幼な子われらに生まれ』公式サイトです。全国にて絶賛順次公開中!

二本目
「海辺の生と死」

こっちの方が自分の琴線には触れた気が・・比べるようなもんでもないけど。

島の濃密な空気が漂ってくるような詩情あふれる作品、とでも言えば良いでしょうか。

とにかく満島ひかりが良かったですね。

なんという激しくも静かに燃えさかる情熱!!

「幼な子〜」も「海辺の〜」も夏頃に封切られたやつで、正直「あー見逃したか」と思ってたやつですが、高田馬場の早稲田松竹はそういう映画を絶妙なタイミングでかけてくれるのでありがたいですな。

夏頃ちょうど島尾敏雄の「死の棘」を読んでたところで、読み終わったら「海辺の生と死」を見に行こうと思ってたのですが、やはり読んでから観て良かったです。

激しい恋に身を焦がすトエと「死の棘」の、夫の情事の露見から狂気に向かう島尾ミホがなんだかつながった気がしました。

主演:満島ひかり×原作:島尾ミホ「海辺の生と死」、島尾敏雄「島の果て」ほか…
*「幼な子われらに生まれ」ではエンドロールの演奏を何かと共演するサックスの鈴木広志くんや江川良子さんがやってたし、「海辺の生と死」で主演の満島ひかりの島唄が素晴らしいなと思ってたら、教えたのはアンサンブルノマド定期でも一声啼いて花を添えてくださった朝崎郁江さんだったり、と予想外の関係者に遭遇したのでした。

渋谷イメージフォーラムのルイスブニュエル3本

12月25日

まずは1本目「ビリディアナ」

善良で美しき修道女ビリディアナ。
正式に修道女になる前に、唯一の身寄りである叔父さんを訪問するのだけど亡き妻に瓜二つのビリディアナに彼は心を奪われてしまい・・・。
1961年製作。
カンヌでパルムドール受賞。
一方でカトリック教会の反発に遭いイタリア、スペインでは上映禁止。

主人が留守になった館に乞食達が入り込み、乱痴気騒ぎをするシーンは退廃的な見せ場だと思うのだけど。スイフトの「奴婢訓」みたいなね。

当時の人たちには相当ショッキングだったんですね。

*数多の映画ファンがリスペクトするルイス・ブニュエルですが、さすがでしたね。

スキャンダラスで退廃的で、でも美しくて。

乞食たちの乱痴気騒ぎのシーンで、一瞬ダビンチの「最後の晩餐」の構図そっくりになる瞬間があったりして、そういうのが保守派のキリスト教徒たちを刺激して反発を呼んだんですね。

12月27日

ルイス・ブニュエル2本目
「皆殺しの天使」

これは秀逸。
ホームパーティーに訪れた上流階級の人々を襲う不条理な運命。
寓意のある密室劇ってところ。
力強くて目が離せない。すごく面白かったです。

*これトーマス・アデスがオペラにしてて、こちらは品川の映画館で短期間ライブビューイングをやってたんですが見ることができませんでした。残念!

12月30日

ブニュエル3本目。「砂漠のシモン」

調べてみたら、柱頭行者シメオン(シモン)というのは5世紀の聖人で、一本の柱の上での苦行の創始者らしいのだな。
シモンを誘惑しようと近づく悪魔が「ビリディアナ」にも「皆殺しの天使」でも主演級のシルビア・ピナル。

3本とも少しづつ違った役どころで楽しませてくれました。

それにしてもルイス・ブニュエルの作品、いたるところに伏線や暗喩といった仕掛けが施されていて目が離せない。
例えば、なんでこの作品のタイトルが「皆殺しの天使」なのか一瞬考えてしまうけど、セレブ達が閉じ込められてしまう部屋に一つだけあるトイレのドアに描かれてるのが槍を持った天使だったり、みんなを導くことになる若い女性が「ヴァルキューレ」って陰口言われてたり、とモノクロの映画ながらイメージを喚起する力に満ちてるんだな、と感心しました。

最後はあまりにも有名な「アンダルシアの犬」

今はなき、「東京の夏」音楽祭で3回連続で見たのを思い出す。1回目は無音で、2回目はウォルフガング・リームがこの映画のために書き下ろした音楽を生演奏で聞きながら、最後にオリジナルの音楽で、というふうに。

リームの書き下ろし作品はあんまり面白くなかったんですね。
「いかにも」な感じで驚かすおどろおどろしい響きだったので。

シュールでユーモラスでグロテスクな悪夢みたいな映像を伴奏するにはオリジナルのワーグナーとタンゴで、優雅に、またあっけらかんとした響きが相応しいように思えます。

*今から思うにブニュエルの映画、いかにも20世紀の表現なんだなと思います。

こういう挑発的な手法が受け入れられ、求められたのは1945年以降の際立った特徴だったのだ、というような。

現在こういった表現が影を潜めているように見えるのは洗練なのか萎縮しているのか・・・


12月27日

「二十六夜待ち」

「海辺の生と死」で清冽かつ濃密な空気感を演出した越川監督作品。

寡黙なセリフ回しの間の沈黙に語らせるやり方は共通してる。

記憶をなくした男と、震災の辛い記憶を忘れてしまいたい女。
心の隔たりを埋めるように体を求めあう。

っていうのをやりたかったんだろうけど、長すぎるセックスシーンに退屈してしまって、「にしては黒川芽以ちゃんが絶っ対に胸見せないのはいくらなんでも不自然なんだけどいかなるジジョーによるものかなあ」などとあらぬ方向に思いは飛んでしまって、「海辺の生と死」が奇跡的な化学反応だったんだな、と思い直した夜でした。

*これは越川監督というのと、井浦新への期待があって見に行ったんですね。

記憶喪失の主人公が記憶を辿るヒントとして体の感覚だけを頼りに「フグ」をさばく、というシーンがありました。どのくらい練習したのかな、とこれまた関係ないことを考えてしまいますね。