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		<title>川島素晴個展へのコメント</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/6210</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 12 Sep 2020 22:44:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
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					<description><![CDATA[川島くんのこと 去年、このシリーズの３回目にあたる「双子座３重奏団」と川島くんのコラボレーションを興味深く聴いた。 「双子座」は、なんと言ってもバリトンの松平さんの歌が全体のトーンを作っていて、彼がナンセンスな言葉を発し [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<pre class="wp-block-preformatted">川島くんのこと</pre>



<p class="wp-block-paragraph">去年、このシリーズの３回目にあたる「双子座３重奏団」と川島くんのコラボレーションを興味深く聴いた。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 「双子座」は、なんと言ってもバリトンの松平さんの歌が全体のトーンを作っていて、彼がナンセンスな言葉を発し続けるうち、ピアノの中川さんとトランペットの曽我部さんも触発されたように言葉を発しはじめて・・・ </p>



<p class="wp-block-paragraph">というふうに川島くんは演奏会全体をデザインしていた様に思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 面白かったのは双子座の３人それぞれ、川島くんの音楽へ向かう姿勢が微妙に違って見えた事である。 例えば、松平さんは、川島君の考えるC級、というかナンセンスというか、とにかく「くだらない」音楽的ギャグを、これ以上ないくらい一生懸命、ある意味では「露悪的に」やってみせる（川島作品に限らず、これは松平さんという人の持っている固有のニュアンスともいえるんだけど）。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">そんなふうに前のめりに、ことさら「さむく」振舞って見せる事で何か表現の新しい地平が見えて来るんじゃないか、と期待してでもいるかのように。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">かたやピアノの中川さんは反対に、悪ノリがどこまで突っ走っても独特の繊細さと流麗なピアニズムを失わないまま、川島くんの音楽に寄り添い続けるしなやかさと洗練が特徴的。 極めて積極的なスタンスを保ってはいるんだけど。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">そして淡々とした態度の超絶技巧的トランペットでそこに色を添える曽我部さんというふうに。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">これはもちろん「双子座」の３人が元々持っていたチームとしての「個性」だったんだけど、川島くんの作品と化学変化を起こすことで爆発的にその個性が際立った演奏会だった。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">こんなふうに自分が受け止めたのは、川島くんとの付き合いが長いゆえの余裕ある鑑賞態度からなのか、あるいは川島くんの作品がこの２０数年ほどの間に周知されて、さまざまにコントラストに富んだ演奏解釈を許すほど懐の深い音楽に育ったからなのか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">そして自分が24年ぶりに彼とのコラボレーションに挑めば、双子座とはまた違った「現在の自分」なりの色が炙り出されるものなんだろうか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">＊＊＊＊＊ </p>



<p class="wp-block-paragraph">四半世紀ほど前、僕と川島くんは新進のプレーヤーと作曲家という存在だった。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">僕は多くの若きプレーヤーと同じく、ゆく末に思い悩み、しかし当面は現代音楽の世界で作曲家たちと聴きてたちを納得させるような仕事をする、というのが目標だった。 川島くんはそんな当時、最も密にコラボレーションしていた作曲家の一人で、「演じる音楽」という独自のテーマを掲げて道なき荒野を拓こうとしていた。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">若く、また未熟な僕はクラシック産業が暗黙に押し付けて来る紋切り型な美意識の圧力に反抗しつつ、誰もまだ聴いた事がない音楽を形にする仕事に明け暮れながら一方で、依然として「ゲンダイオンガク」と作曲家たちは謎のままだった。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">プレーヤー同士の間の気楽な親近感と違い、作曲家たちと自分のあいだには何という距離がある事だろうか！</p>



<p class="wp-block-paragraph"> しかしプレーヤーとして新しい次元を目指すには、この距離を埋める努力をするしかなく、このあと自分自身で作曲を試すようになるまで、この「距離」は硬いしこりみたいな違和感として自分の中にあり、そのしこりと最も激しく抗っていたのが、川島くんと最も密な共同作業をしていた95年〜99年くらいの時期だったんじゃないかと思い出すのである。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">今回の演奏会とプログラム的にも響き合っている、96年「Dogen Faetures 川島素晴」では、「視覚リズム法」と「Invention」という二つの作品で、楽器を用いない、身体と声を使った作品に挑戦した。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">人によってはこれは、いかにも奇を衒ったパフォーマンスに見えたかもしれないが、自分としては「フルート」という使い慣れた道具を離れたところで、川島素晴という作曲家が提唱する「演じる音楽」というテーマの「核」を、身をもって表現できるか、少しでも「作曲家との距離」を縮めようとする前のめりな努力だったのである。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">（最近、チェロの山澤慧さんがこの同じ「視覚リズム法」の演奏に挑んだり、ギターの山田岳さんがCDに声だけのパフォーマンス作品を収録したりしてるのを聴いて、単純に「すごいなあ」なんて感心してたんだけど、案外同じようなモチベーションでやってるのかもしれない） </p>



<p class="wp-block-paragraph">これは「作りなおす」という感覚に通じている。 子供時代から訓練して身につけたクラシック的な技術や身ぶりを削ぎ落としたとき、自分の身体と心に何が残っているか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">やり慣れた美意識に安住した途端に老化が始まるんじゃないのか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">川島くんが自身のテーマ「演じる音楽」を説明する際よく使う「異化」という言葉を拡大解釈すると、やり慣れた体の感覚を「作りなおす」試み、と云うこともできるかもしれない。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">２５年前、目新しいテーマだったものが、本質的なものである事がはっきりしてきた現在、再び濃い共同作業ができるのが楽しみである。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">「演じる音楽」とは、音楽が本来持つ「若々しさ」へ通じ得るバイパスだと考えるのであるならば。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ソロコンサートへのメモ＃９</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5974</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 06 Jun 2020 15:21:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
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					<description><![CDATA[「The Other Flute」 まず演奏会の延期日程決定。 １０月１６日（金）１９００開演 場所は同じ早稲田・東京コンサーツラボ。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ このソロの演奏会には、自分が２０代の頃に [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">「The Other Flute」</h2>



<p class="wp-block-paragraph">まず演奏会の延期日程決定。 <br><br>１０月１６日（金）１９００開演 <br><br>場所は同じ早稲田・東京コンサーツラボ。<br><br>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ <br><br>このソロの演奏会には、自分が２０代の頃にやっていたスタイルに一旦戻ってみて スタンスを仕切り直す、というような意味合いを込めたつもりで、前回までは演奏する予定の曲たちに対する手前勝手な見解を綴ってみたのだった。<br><br> しかし、現在の自分の活動とも照らして先に進むと言う意味で考えるとそれだけでは面白くないので、自分でも１曲作ってみることにした。<br><br> ３０代以降、機会があるたびさまざまな場面で、自己流ではあるけど作曲を試してきたのである。 <br><br>もちろん体系的な訓練を積み、年中作曲のことばかり考えている人たちには敵うわけがないところもあるのであり、自分を「作曲家」なんて自称するのは実におこがましい所業だと自覚しつつも、作曲をすることで演奏に対する視野も間違いなく相互作用的に広がる、という感覚を一度おぼえると「創作」の方向に対しても自分の可能性を試すように働かないとバランスが取れない気がしてしまう。 <br><br>「演奏」に軸足のある人間が「創作」にまで手を広げるのは、本来ならとても自然な欲求だと思われるし、他人が作ったものをひたすら演奏するだけのスタイルと違って、拠って立つ足場は広くなり風通しが良くなる。<br><br> 月並みな言い方かもしれないが、「創作」というのは天井知らず、無制限の感覚なのであって、そのことが演奏に与える影響は計り知れないのである。<br><br> そして何より「自分がこうしたい」という主語が、確固としたものになってくるのを感じる！ <br><br>今回にしても「自分も作る」という立場から他の作曲家たちの曲を眺めることでしか生まれない「共感」があるように思うのである。 <br><br>今回、演奏会のタイトルは「The Other Flute」とした。 <br><br>これはアメリカのフルーティストで作曲家のロバート・ディックによるフルートの研究書のタイトルからとったのである。<br><br> 「伝統的なありようとは違う、フルートの別の可能性」とでもいうような意味合いとニュアンスだろうか。<br><br> 自分の現在地を模索するにはなかなかの言葉だと思ったのである。<br><br> 新曲のタイトルも「Entering into the other flute」としようと思う。<br><br> １９７５年に出版されたディックの本のタイトルを借りて、２０２０年の「The Other Flute」のイメージを打ち出すことができるだろうか・・・・・・・ <br><br><br><br>演奏会を１０月に延期にしたことで、この”メモ”の集中連載も、ちょっと間抜けなタイミングになってしまった感が否めない。<br><br> ここで一旦連載を中断して、夏の終わり頃からまた、新曲の進捗で呻吟する「創作ノート」という形で再開してみようかな、と目論んでおります。 <br><br>それではみなさま、しばし！！<br></p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><img fetchpriority="high" decoding="async" width="554" height="497" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/06/10.png" alt="" class="wp-image-5980"/></figure></div>
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			</item>
		<item>
		<title>ソロコンサートへのメモ＃６</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5882</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 09 May 2020 15:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
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					<description><![CDATA[「純粋な譜面審査」とは？ 「Unity Capsule」への序章」 権威ある日本音楽コンクールの作曲部門が、本選会での演奏審査をしないことに決め、その理由として、より「純粋な譜面審査」をするため、という言葉が使われて物議 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">「純粋な譜面審査」とは？</h2>



<p class="wp-block-paragraph">「Unity Capsule」への序章」<br><br></p>



<p class="wp-block-paragraph">権威ある日本音楽コンクールの作曲部門が、本選会での演奏審査をしないことに決め、その理由として、より「純粋な譜面審査」をするため、という言葉が使われて物議を醸したのがだいたいおととしの今頃だった。<br><br>客観的に見て予算の問題でそうなったのは明らかだったにも関わらず、審査委員長の公式な見解として（建前にせよ）「演奏家たちによる実演は、譜面の厳密性を削いで、人間的なバイアスをかけてしまう」というようなコメントが出されたから、それが音楽家たちの神経を逆撫でして火に油を注いだ、というような一連の出来事だったと思う。<br><br>現在でも譜面審査のみで作曲のコンクールが行われているとしたら憂慮すべきことだが、それはまた別の話とする。<br><br>自分としてはこの騒ぎで「楽譜」というものの、特にクラシック-現代音楽に対する、人によって微妙に見解を異にするその温度差などを含めた位置付けや存在感が浮き彫りになった、ということを実に興味深く感じたものだった。<br><br>「楽譜通りに演奏する」というのが西洋クラシック音楽の大前提であり、「楽器が出来る」というのは常に「楽譜の読み方を知っている」ということとセットでないと認められないことになっている。<br><br>楽譜をある程度「即座」に、ある程度「深く」読める、「ソルフェージュ」と呼ばれる反射運動的な能力を共有していれば、作曲家は自分の意図を演奏者にすぐに伝えることが出来るし、知らない人間同士でもアンサンブルが出来て短時間で音楽を成立させられる、という意味では「楽譜」は強力な道具である。<br><br>その一方でクラシック音楽においては、すべてが楽譜に書かれているわけではないから「作曲された背景を知る」ということがレベルの高い解釈につながる、ということになってきもする。<br><br>「当たり前すぎることは書かれない」としたら、「楽譜通りに演奏する」ことでロボットのような演奏が生まれてしまうことを防ぐために、時代と地域に基づくローカルな背景の検証で演奏を補完することが必要になる、というのは「音楽」と「楽譜」をめぐる、矛盾めいた面白い文化である。<br><br>また、クラシック以外の音楽においては、ほぼ例外なく「即興演奏」が使われることも思い出しておきたい。インド古典音楽しかり、フラメンコしかり、ジャズしかりetc..<br><br>「即興」が前提になっていれば、演奏に生き生きとした表情や闊達さを与えるためのハードルはぐっと低くなる。こう考えるとひたすら「楽譜どおり」に演奏されるような音楽が、実は世界的に見れば例外的であるのがわかってくる。<br><br>そこで「クラシック音楽」の最高学府にして代表的な見解の表明者ともいえるパリコンセルヴァトワールは、いち早く「即興演奏」の授業を取り入れる。<br><br>即興演奏の経験を経た後に「楽譜どおり」の世界へ戻ってくることで、より高度な演奏感覚を獲得できるかもしれない。<br><br>闊達さの欠如を埋めるため、教育課程の中へ「体験的に」即興演奏を取り入れているとしたら、これもまたなんという矛盾でアクロバチックなやり方だろうか。<br><br>このようなことは、数多ある例のほんの一部であり、クラシック音楽をグローバルに広めるために「楽譜通りに演奏すればよい」という、一見わかりやすい方法を採用した人々は、結局のところ「楽譜」と「音楽」の間に生まれがちな矛盾と齟齬を埋めることに苦心して、ありとあらゆる努力を注ぎ込むことになったんではないだろうか？<br><br>文学や美術、演劇などの表現者たちが、「百万言をもってことばにならない気分を表現する」とか「写実性や構築性を捨てて、ドリッピングや筆のいきおいで絵を描いてみる」とか「わかりきった感情をことばではなく、わざわざ踊りで表現する」というようなことをするとき、彼らには「抽象表現に向っている」という強い意識がはたらくと思われる。<br><br>かたや音楽家たちが仕事をするとき「抽象表現をしている」というような意識は持ちにくいものである。<br><br>この「無自覚さ」は「楽譜に沿って忠実に演奏する」という、訓練された通りのルーティーンがもたらす感覚と思われる。<br><br>作曲家たちの仕事ですら、ひらめいた着想を楽譜にしていくのは、まるでレンガを積むような単調さと言えないこともない。<br><br>これほどシンプルでわかりきった行為はないのである。<br><br>しかし、画家や小説家や俳優たちからしてみれば、それでも「音楽」というのは彼らがやっているどれにもまして、高度に抽象的な表現である。<br><br>モーツァルトのソナタであれ、ジョン・ケージの前衛音楽であれ、それが「音」という曖昧なものの組織である以上は。<br><br>アカデミックな作曲の世界では「エクリチュール」（書法）という言葉が使われるが、これもまた文学や哲学の世界からの借り物のことばなのであり、音楽行為がもともとは「ブラックボックスに手を突っ込んで、形ならぬものと格闘する」ようなことだったと思い出してみるなら、「楽譜」はそれだけでは「聴きて」に届かないことがはっきりしてくるのではあるまいか。<br><br>文字によるエクリチュールは読み手に直接はたらくが、楽譜はそうではないからである。<br><br>「「音楽」は「楽譜」という上位の抽象表現を「演奏」に落とし込むことで成立している。西洋音楽の特殊なところは、作曲家が熟考して作った楽譜をプレーヤーたちがありとあらゆる努力を重ね、出来るだけ正確で、精度と質の高い「音」に形づくろうとすることで高い芸術性を持つようになったこと」<br><br>というような理解を、普通に注意深い聴きてであれば持っているものである。<br><br>そして以上のようなことを踏まえてさらに言わせてもらうと演奏に高い精度を求める、どんなに厳しい作曲家でも、生演奏によるある程度の「誤差」は計算に入れて楽譜を作るものである。<br><br>どのくらい、あるいはどのようにそういった「緩衝地帯」あるいは「潤滑油」と言っていいような仕掛けを楽譜の中にもぐり込ませるか、というのが作曲家たちの技倆であり、個性でもある。<br>言い方を変えれば、作曲家たちはどこまでいっても、プレーヤーの肉体が追い付かないようなことは書けない。<br>「物理法則を無視することはできない」のである以上は「純粋な譜面の美しさ」だけが独立して存在することはあり得ない。<br>それはイデア論である。<br><br>コンピューターゲームの世界で、小さな子供が巨漢のファイターを吹っ飛ばすような。<br><br>あるいは、完璧に純正な三角形を現実に描くことは可能か？<br><br>完全に瑕疵のない姿を再現するのはどんな手段を使っても不可能ではないか？<br><br>以上のようなくどくどしい言葉を費やしてやっと「譜面の厳密性」なんて言葉にいきり立って反応した、経験ある音楽家たちの肌感覚の何百分の一かが説明できるか出来ないか、といったところである。<br><br>少なくともこれが、木ノ脇が「楽譜」と言うキーワードを通して音楽を考えたときのことばで、次回は以上の見解をもとにBrian Ferneyhough「Unity Capsule」 を考えて見たいと思います。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><img decoding="async" width="797" height="515" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/80a2bfb688bf99c74f074224bfb5a414.png" alt="" class="wp-image-5893" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/80a2bfb688bf99c74f074224bfb5a414.png 797w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/80a2bfb688bf99c74f074224bfb5a414-735x475.png 735w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/80a2bfb688bf99c74f074224bfb5a414-768x496.png 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/80a2bfb688bf99c74f074224bfb5a414-750x485.png 750w" sizes="(max-width: 797px) 100vw, 797px" /></figure></div>
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			</item>
		<item>
		<title>ソロコンサートへのメモ＃５</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5856</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 03 May 2020 00:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
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					<description><![CDATA[「中川統雄；Dark Matter」 音楽という文化を、「作曲家」ー「演奏者」ー「聴きて」という３種類の人間たちの間のゲームと考えてみる。 「作曲家」と「演奏者」は作曲と演奏に対して、ある程度以上の水準を保つ義務がある。 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">「中川統雄；Dark Matter」</h2>



<p class="wp-block-paragraph">音楽という文化を、「作曲家」ー「演奏者」ー「聴きて」という３種類の人間たちの間のゲームと考えてみる。<br><br>「作曲家」と「演奏者」は作曲と演奏に対して、ある程度以上の水準を保つ義務がある。<br><br>一方、「聴きて」はその音楽に対してどんな感想を持っても、どんな反応をしてもいいのだけど、ある程度以上「注意深く聴く」という役割がある。<br><br>「作曲家」と「演奏者」は良い「聴きて」でもある必要がある。<br><br>「聴きて」が「作曲家」や「演奏者」でもあれば理想的だ（上手である必要はない。注意深ければ良いのである）<br><br>音楽に、「脳の活発な運動」や「精神の飛躍」を本当に求めるなら、この３角関係に参加する必要がある。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br>バスフルートのためのソロ曲「Dark Matter」の作曲者、中川統雄は最も古い友人の一人で、同時に最も長く共同作業している音楽家でもある。<br><br>なかでもこの「Dark Matter」は、作曲に際して何度も綿密なミーティングを重ねて、技術的な確認を行っただけでなく、何種類もの深く踏み込んだ実験も行って完成に至った作品なのである。（曲の途中で出てくる、タングラムと声を混ぜてリズミックな効果を作る奏法は我々のオリジナルで「モンキータングラム」と勝手に呼んでいる。）<br><br>そうすることで結果的に、お芝居の脚本で言えば「当て書き」のような、「木ノ脇」という演奏者を強く意識した曲になっている。（作曲家自身は一時期「オートクチュール」という言葉でこれを説明したこともあったものだ）<br><br>聴いたときの印象は複雑で、聴く人によっては「即興演奏してるのかな？」と思う人もいるかもしれない。<br><br>しかしこの作品の核になっているのは実のところ「リズム」のーとくにテンポを頻繁に変化させることによって惹き起こされる複雑なプロポーションと、相反するニュアンス同士の稠密な同居であって、演奏にあたって演奏者は「バスフルート」という、ただでさえ大きく、もてあまし気味で取り回しの悪い楽器を、最後まで安定的かつ「繊細」にコントロールすることが求められる。<br><br>部分的に、きわめて強い、場合によっては暴力的にすら聴こえるところも、あくまで意図的なニュアンスなのであり、全体を支配すべきなのは特殊楽器バスフルートをとても繊細に扱ったとき特有の響きの質感でなければならない。<br></p>



<p class="wp-block-paragraph">演奏者がそうやって、この曲を多少なりとも整った姿に作り上げるだけでもかなりの努力がいる。<br><br>だから想像力を少し働かせれば、「即興演奏」なんかではこんな響きにはならないことがわかる。<br><br>別の言い方をすれば、聴きてたちがある程度注意深く敏感なアンテナを立てていないと、この作品の入念にして偏執的とも言える仕掛けの数々に気がついて面白がってもらえないかもしれないとも思うのである。<br><br>演奏者が高い精度の演奏を目指し、聴きてたちは固唾を飲んで何が起こるか耳を集中させる、というのは音楽を次元の高い芸術として成立させるための、言ってみれば当然の前提とも言える。<br><br>しかし、ひとたび音楽を「娯楽」としてのみ捉えてしまうと、「難解さ」は娯楽にとっての障壁でしかなく、「作曲家」と「演奏者」は「サービスの提供者」に、「聴きて」は「お客様」に落ちていくしかなくなる。<br><br>「ゲームプレーヤー」を目指すか、「お客様」で満足しておくか。<br><br>「聴きて」はわざと集中を欠いて大騒ぎする、という権利すら持っている。<br><br>が、演奏会への入場料を払ってわざわざそんな振る舞いをする人はそうそういないだろう。<br><br>入場料を「ゲームへのエントリー料」と考えることもできる。<br><br>払うことでゲームプレーヤー＝「注意深い聴きて」という自分を担保しているのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ゲームプレーヤー１＝作曲家・中川統雄は誘惑する。<br><br>練度の高い演奏があり、少しでも注意深く聴いてくれる耳があれば、活発な精神のグループ活動に参加できるかもしれないと。<br><br>　芸術としての音楽には、聴かれる際にもある程度のハードルがあるものであり、そのハードルの高さをきわめてデリケートに設定できることが作曲家としての彼の力で、職人的繊細さですらあると思う。<br><br>ゲームプレーヤー２＝演奏者・木ノ脇道元はそのおおもとの意図を理解し、「作曲家」と「聴きて」をつなぐべく、ありとあらゆる努力をする。<br><br>ゲームプレーヤー３＝聴きてたちは自由に振舞う。<br><br>そのさい、願わくば上記のような、ゲームを成立させるための努力が働いていることを念頭に置いていてくれたらと願うけれど。<br></p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><img decoding="async" width="1024" height="614" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/ba9df8228f62a18cdfad3e6a1babffca-1-1024x614.png" alt="" class="wp-image-5858" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/ba9df8228f62a18cdfad3e6a1babffca-1-1024x614.png 1024w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/ba9df8228f62a18cdfad3e6a1babffca-1-735x441.png 735w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/ba9df8228f62a18cdfad3e6a1babffca-1-768x461.png 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/ba9df8228f62a18cdfad3e6a1babffca-1-750x450.png 750w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/ba9df8228f62a18cdfad3e6a1babffca-1.png 1044w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></figure></div>
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			</item>
		<item>
		<title>ソロコンサートへのメモ＃３</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5789</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Apr 2020 15:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
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					<description><![CDATA[「コロナウイルスからシリンクスへ」 この「ソロコンサートへのメモ」と題した集中連載も３回目になろうとしているわけだけど、やはりこの辺で世界中が直面している前例のない事態について触れないわけにはいかない。 コロナウイルスの [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<pre class="wp-block-preformatted">「コロナウイルスからシリンクスへ」</pre>



<p class="wp-block-paragraph">この「ソロコンサートへのメモ」と題した集中連載も３回目になろうとしているわけだけど、やはりこの辺で世界中が直面している前例のない事態について触れないわけにはいかない。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>コロナウイルスの感染拡大をめぐる、多くの死者を含む惨状についていまや知らない人はいない。誰もが直面しているだけに、それぞれの人にとって微妙に意味合いを異にする事態である、とも言えるかもしれない。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>感染の拡大に伴って表れる政治の失策や、経済の失速、人々の愚行について「この事態より以前にあった問題や傾向が顕在化しただけだ」というのもわかる気がする。音楽家たちにとっては「音もなく」出来した出来事だけに、いっそうそんな印象が強いのではないだろうか。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>日本では、２月の初めにクルーズ船「ダイヤモンドプリンセス号」が横浜に寄港し、乗客の感染と検疫が報じられたニュースからすでに２ヶ月。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>「終息」（収束）という言葉はリアリティを失い、「現実離れした楽観主義」とでもいうような違和感をまといはじめた。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>感染は世界中に広がりを見せ、すでに疲弊していた経済システムにさらなる負荷をかけている現状を鑑みるに「元どおりの日常が戻ってくる」ということが考えにくくなってきたからである。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>だから「コロナウイルスによる停滞した日常」が誰にとっても初めての経験であるのと同じく、感染が縮小に向かった後もまた、前例のない生活に移行していくんではないかという予感をみんなが持っている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">「停滞」のなかで我々はどんな音楽が出来るのだろうか？<br><br>＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>今回のコンサートのプログラムにドビュッシーとヴァレーズを入れたのは「現代音楽」をもう少し大きく「２０世紀音楽」として眺める視座に立ちたかったからである。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>一方、他のプログラムを「８０年代以降の現代作品」という極端なバランスにすることで、ドビュッシーとヴァレーズもクラシックな文脈とはまた違った聴かれ方をされることを期待したのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>実は今年度の東京芸大フルート科の入試課題が「シリンクス」だった。楽譜通りに音を並べるのは難しくないが、２０歳に届かないような若いプレーヤーたちにとって、これを「音楽」にするのは至難の技である。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>和声を軸にした音楽を、モーツァルト流のシンプルな理屈で説明できるのは後期ロマン派までで、先輩たちの和声から飛び出したドビュッシーの音楽のなかでも際立って無調的で、しかもフルートの旋律線１本のみの独奏という、きわめつきに「抽象的」な音楽を、荒削りでもいいから形にできるか？<br>というのはなかなかハードルの高い、秀逸な課題だと思われた。（難しすぎたかもしれない）</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>「抽象的」（自分はモーツァルトのソナタであれ、ジョン・ケージの前衛音楽であれ「抽象」であることに変わりはないと思っているのだけど、そのことはまた別の機会に。）とはいえ、「シリンクス」は、ロマン派的な身振りやニュアンスも色濃く残しているところに個性がある。モーツァルトのような和声とは別の理解の上に立ちながら、ロマン派的叙情を豊かに表現できるか、というところの難しさがポイント。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>「シリンクス」の自分なりの音楽的理解をあえて言葉にすれば「進化しかけの姿」である。<br>陸に上がりかけている魚のような、腕を退化させるかわりに羽を獲得しかけている恐竜のような。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>「シリンクス」の元ネタになっている神話からしてまさしく、葦に姿を変える妖精の「変容」の物語なのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>激烈な痛みや困難を孕みながらなお、変化を求める精神のなかに佇んでいる美しさを「シリンクス」に表現できたら、と強く思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>もっと言えば今回選んだ曲全部がそうなのであり、「停滞の季節」の先に、フルート１本で「進化しかけのモンスターたち」を次々に呼び出すことができたら、聴き手たちをダイナミックな精神活動に引き戻せるかもしれない。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>それができたら、それこそが「萎縮した精神を解き放つ」という芸術の社会的役割の「元どおりの姿」なのであり、かくして停滞の呪いは社会の末端からゆっくりと解かれていくのではあるまいか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">・・・・・というのは理想です。<br>いまのところ。<br>まずは皆さんの上に薫り高き健康があり続けることをお祈りします。モンスターたちを連れてまた皆さんの前に現れることを夢見つつ。<br></p>



<figure class="wp-block-image size-large"><img decoding="async" width="327" height="493" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/04/7aded80baba377ae7b198c8ac2a17255.png" alt="" class="wp-image-5807"/></figure>



<p class="wp-block-paragraph"></p>
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			</item>
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		<title>ソロコンサートへのメモ＃２</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5776</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 12 Apr 2020 14:23:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
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					<description><![CDATA[「川島素晴；Manic Psychosis」 川島さんが現在も作り続けている作品を考えるに、最も若い時代の成功作であるこの「Manic Psychosis」(躁病)には、彼の創作の傾向や音楽観が凝縮されているように見える [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<pre class="wp-block-preformatted">「川島素晴；Manic Psychosis」</pre>



<p class="wp-block-paragraph"><br>川島さんが現在も作り続けている作品を考えるに、最も若い時代の成功作であるこの「Manic Psychosis」(躁病)には、彼の創作の傾向や音楽観が凝縮されているように見える。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>演奏行為を分解ー再構築した際に生まれる演劇性、そしてそれを楽譜に落とし込む際の独特の方法論など。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>９２年の秋吉台現代音楽セミナーで、若い作曲家が力の片鱗を見せた作品として存在感を放ったこの曲は、確か「ベスト・ノーテーション賞」という賞をもらったんだった。「アイデアを楽譜に表現する技術において卓越している」と評価された記譜法の巧みさ、というのもこの曲のもつ幾つかの顔の一つ。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>「管楽器のための無窮動」という矛盾した方法論ー「無窮動」とは休みを含まない細かい音型の連続の演奏のことであり、「息つぎ」が不可欠な管楽器にとっては不可能な演奏と言えるーを、演奏の諸要素を解体することで可能にする、というアイデアから出発するこの作品は、スラップタンギングや、タングラムのようなパーカッシブエフェクトから、トランペットアンブシュアのようなかなり特殊なものも含めて、現代奏法に対する広い理解が不可欠だけれど、演奏の要になるのは、そういった現代奏法の合間にピンポイントで顔をみせる、いわゆる「普通のやり方」で演奏する部分である。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>「普通のやり方」とは言っても、広い音域に渡る細かい音型をかなり早いテンポで演奏しなければならない。特筆すべきなのは、この高速フレーズが「モード的」あるいは「擬似和声的」とでもいうような、ニュアンスのある響になっていて、それがこの技巧的な作品に「饒舌さ」といってもいいような個性を与えていること。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>演奏するにあたっては、この部分の陰影を前面に出すやり方を模索して、これが単に実験的な前衛音楽にとどまるのではなくて、人間的なニュアンスを含んだ、しかしながら病的な、口から泡を飛ばして喋りまくるキャラクターを「演じる」というようなところまで、演奏の次元を高めたいものなのである。</p>



<hr class="wp-block-separator"/>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>訂正</strong><br><strong>大きな事実誤認がありましたので、お詫びして以下、訂正します。</strong></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p><br>「９２年の秋吉台現代音楽セミナーで、若い作曲家が力の片鱗を見せた作品として存在感を放ったこの曲は、確か「ベスト・ノーテーション賞」という賞をもらったんだった。」</p></blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">これは、「９４年」の「ダルムシュタット現代音楽祭」のことで、しかもベストノーテーション賞をもらったのは「Prelude」という別の作品でした。<br>「Manic Psychosis」は同音楽祭で「奨励賞」をもらったのであり、その時木ノ脇もその同じManic Psychosisの演奏で同じ奨励賞をもらったのでした。<br>勘違いの理由の一つにはベストノーテーション賞が別の曲だったとはいえ、「Manic Psychosis」もまた、新人離れした、分かり易く洗練されたリアリゼーションだった印象だったからですね。<br><br></p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<figure class="wp-block-image size-large"><img decoding="async" width="1024" height="768" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/04/SANY0104-1024x768.jpg" alt="" class="wp-image-5777" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/04/SANY0104-1024x768.jpg 1024w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/04/SANY0104-735x551.jpg 735w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/04/SANY0104-768x576.jpg 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/04/SANY0104-1536x1152.jpg 1536w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/04/SANY0104-2048x1536.jpg 2048w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/04/SANY0104-750x563.jpg 750w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/04/SANY0104-scaled.jpg 1920w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /><figcaption>SANYO DIGITAL CAMERA</figcaption></figure>
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			</item>
		<item>
		<title>ソロコンサートへのメモ＃１</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5696</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 14 Mar 2020 14:14:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
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					<description><![CDATA[「一柳慧；In A Living Memory」 今や、音大の入試やコンクールの課題曲としても頻繁に聴くようになったこの曲を、だからといって敢えて取り上げているように思われるのも嫌なので本当は迷ったのである。しかし、この [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h3 class="wp-block-heading">「一柳慧；In A Living Memory」</h3>



<p class="wp-block-paragraph">今や、音大の入試やコンクールの課題曲としても頻繁に聴くようになったこの曲を、だからといって敢えて取り上げているように思われるのも嫌なので本当は迷ったのである。<br>しかし、この作品は「楽器の役割の転換」という、とても現代的なテーマを含んでいて、今回のプログラムの中に並べてみると異彩を放つ。<br>伝統的に横方向に流れる流麗な旋律線、というのがフルートという楽器に対するとても強いイメージだったのを、フルートが苦手とする低い音域を含む同音連打で、徹底的にパーカッシヴでミニマルな、機械的で現代的な響きを作り出すよう、この作品は要求しているのである。<br>もともとフルートへの要求としては禁じ手だった、このような大胆で高度な要求の作品になった理由は、これが神戸国際フルートコンクールのために作られた委嘱作品であるということでもある。現代作品としての「楽器法の拡張」というテーマが、コンクールという場での「プレーヤーへの挑戦」というテーマとうまく重なったのだと思う。<br>「無伴奏フルートの演奏を打楽器的、機械的音楽に変身させる」という困難さのみに焦点を当てる、というシンプルな洗練がこの作品の個性で、そう考えて譜面を眺めてみると書き込みの少ないすっきりした譜づらである。<br>冒頭にテンポの指定とともに記されている「Vigoroso」という楽想の指定を辞書で引くと「活力に満ちて」とか「はつらつと」とか出てくるから、若いプレーヤーたちは「vivo」だとか「con brio」のようなありきたりな指示と混同しがちだけど、vigoroso(英語のvigorousも同じく)という言葉はもっと激しいニュアンスを含む。<br>この曲の場合は、クラシックの美意識が推奨するようなやり方からはきわめて例外的な、「フルートの低音を強く、アタッキーに発音する」という、ある意味暴力的といってもいいような響きが暗示されているように思えるのである。<br>「機械的」という言葉を重ねてしまったが、これは一方で有機的で原始的な、抑えがたい衝動の爆発のようでもあり、そしてやはり壊れた機械が暴走するようなパワーと無慈悲さを兼ね備えていたい。<br>２００１年にこの曲を初演したのはサントリーホールでの一柳慧さんの個展のことであったが、それは神戸のコンクールより前のことだったので、コンクールの実行委員長だった金昌国先生に「そういうことをされては困る」と、えらく叱られたのを覚えている。<br>自分としては一柳さんから頼まれた演奏を引き受けた以上やるしかなかったのだけど。<br>しかし金先生の主張は正しいのである。<br>「演奏の前例のない作品を楽譜だけを頼りにして演奏を組み立てる」というのがコンクール委嘱作品としての狙いであり、また、プレーヤーがその技能を競う、基本的な部分でもあるわけだから。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
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		<title>今年の抱負</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5512</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 12 Jan 2020 02:05:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
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					<description><![CDATA[今年は年頭に際して、例年と違うある思いがある。木ノ脇のことをざっくりと「現代音楽のスペシャリスト」と言った言葉で理解している人は別だけれど、僕の周りに居て、もう少し詳しく、人としても音楽家としても木ノ脇を知る人、あるいは [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph">今年は年頭に際して、例年と違うある思いがある。<br>木ノ脇のことをざっくりと「現代音楽のスペシャリスト」と言った言葉で理解している人は別だけれど、僕の周りに居て、もう少し詳しく、人としても音楽家としても木ノ脇を知る人、あるいは実際「現代音楽」の創作と演奏の場にいる人たちから見た現在の僕の姿は、<br>「現代音楽の演奏に対して、それほど前のめりなわけではなく、マルチにいろんなところとかかわって演奏活動してる」<br>というようなイメージが平均的なところかな、と思う。「好きなことしかやらないから」と思ってる人もいるかもしれない。<br>若い時から、どんな演奏の話が来ても「No」を言わない、というのが僕のやり方で、「仕事」としての演奏を完遂し、相手や聴き手を納得させてみせる、というところに自分のプレーヤーとしての矜持も、音楽家としての次元の高い複雑な喜びも込めようとしていたつもりである。<br>そしてフリーのプレーヤーとしてのそういうスタンスは間違っていないと今でも思うのである。<br>ただ、学校を出たばかりで、経験の浅い僕の主な顔は<br>「同世代の作曲家たちのプレーヤー」というもので、自分でも当面はそれでやっていこうと思っていたのだった。<br>幾つかの賞をもらって幾つかの、作曲家たちを巻き込んだ演奏会の企画をやらせてもらったあと、出光音楽賞とアリオン音楽賞という大きな賞をもらって、その頃から「現代音楽」とは一線を画すような演奏の仕事も入るようになった。（アンサンブルノマドが始まったのもちょうどこの頃）<br>この頃で現在の自分のスタンスは決まってしまったんじゃないかと思われる。<br>頼まれるままに片っ端にやっていた現代音楽の（それも「初演」が多かった）「玉石混交」さにも少し疲れが出てきて、そういう僕の仕事のやり方をやんわりと諌める人もいたりしたので、余計「距離を取る」ほうに拍車がかかってしまったような気がする。<br>一方で「現代音楽」とは別の面白そうな話も入るようになってきてしまったから。<br>しかし「片っ端」がいやなら、情報を集めて自分で納得がいく選曲をして演奏することだってできたはずだった。<br>作曲家たちを刺激してリードするほどのプレーヤー側の「現代音楽の旗手」としての木ノ脇の姿を期待してた人も結構いたのである。<br>まあ、そういう「レッテル」がいやだった、というのも多分にあった。若いと余計に。<br>「今年の抱負」それは２０代で学校出たばかりだった自分の、（それはだいたい９０年代後半くらいということになる）<br>「新しい作品を積極的に、面白く次元の高い演奏で紹介するプレーヤー」というあり方を復権するということだ。<br>こういう風に考えるきっかけになったのは若い世代の二人のプレーヤー。ギターの山田岳さんとチェロの山澤 慧さんがきっかけだと思う。<br>山澤さんは去年彼の独奏チェロの演奏会のシリーズのために新しい曲を作曲させてもらったし、山田さんはノマドでも、また個人的にも共演歴のある、近しいプレーヤー。<br>彼らは非常に前のめりに新しい作品を紹介する仕事をしていて、９０年代にはああいうタイプのプレーヤーはまだいなかったんじゃないかと思われる。<br>彼らに学びつつ、さらに自分の経験も糧にして新しいことができるかも。<br>と思うのである。<br>小泉浩さんが日本のフルートの現代作品を取りまとめた演奏会のシリーズをバリオホールで始めたのは今の僕よりずっと年上だったんじゃないだろうか？<br>というわけで、去年ついに５０歳に到達してしまった自分でも、まだ新しい顔を見せることが出来るかもしれない。<br>手始めに今年のどこかで、まずは９０年代にやっていたリパートリーを中心にした演奏会をやろうと思う。当時はうんざりして「もう別のことをやらなきゃ」と思ったりもしたけど、今はまた新しい聴き手だっているのである。<br>これはずっと自分の中でくすぶってたことでもあるんだけど、昨年末、昔からの友人と会って話して、整理がついたことでもあるのである。<br>というわけで今年以降の木ノ脇を刮目して見よ！</p>



<p class="wp-block-paragraph">なんてね。</p>



<figure class="wp-block-image size-large"><img decoding="async" width="1024" height="768" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/01/SANY0074-1024x768.jpg" alt="" class="wp-image-5523" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/01/SANY0074-1024x768.jpg 1024w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/01/SANY0074-735x551.jpg 735w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/01/SANY0074-768x576.jpg 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/01/SANY0074-750x563.jpg 750w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/01/SANY0074.jpg 1140w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></figure>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>「ゲスト↔︎ホスト」</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/3667</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 22 Apr 2019 12:00:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
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					<description><![CDATA[２００字限定のツイッターの投稿ならこんな文章になるかもしれない。 「①演奏メンバーを厳選して演奏の質と精度を担保する②高い技量をあてにできないメンバーでも企画とダイレクションで内容を担保するふたつのスタイルが考えられるが [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><br><br></p>



<p class="wp-block-paragraph">２００字限定のツイッターの投稿ならこんな文章になるかもしれない。</p>



<p class="wp-block-paragraph" style="text-align:left">「①演奏メンバーを厳選して演奏の質と精度を担保する<br>②高い技量をあてにできないメンバーでも企画とダイレクションで内容を担保する<br>ふたつのスタイルが考えられるが、実際には場合に応じて両極の間を自由に大きく振れる闊達さが理想」<br>自分マターで企画をを立てるときに、最近感じるリアリティーについての見解、といったところである。<br>先日、「それぞれのドビュッシー」という公演を終え、僕が芸大生あるいは芸大を卒業して間もない若いプレーヤーたちとのコラボレーションというかたちで演奏会を企画したのは２０１６年以来３回を数えることになった。<br>今回の「それぞれのドビュッシー」では４人の若手プレーヤーのうち３人がほとんど初めての作編曲に挑んでくれた。<br>勿論これだけでは聴き手を意識したプログラムとしては心もとないのだけど、ドビュッシーの曲と組み合わせ、更に作編曲も「ドビュッシーを巡って」という「しばり」があったおかげで、ほとんど作曲初体験というような未熟な作品すら相互作用的に働きあって魅力的なプログラムに組み立てることができたと思うのである。<br>すべて自分のアイデアと企画力が力を発揮したとまでは言わないが、根底のところには冒頭に書いたような確信があったと思う。<br>言葉を変えれば「洗練された高い演奏技術だけでは面白い演奏会は成り立たないし、企画力先行だけでは演奏の魅力を削ぐことになる」ということだろうか。<br>そういう意味では芸大卒の若いプレーヤーたちというのは、振れ幅のちょうど真ん中あたりにいて、こちらとしてもとても勉強になる。<br>基本的なことはだいたい押さえていて、大抵のことには対応できるが、技術的に未熟なところがあるのも否めない。一方で、精神的に柔軟で、面白そうなことや勉強になりそうなことには先入観抜きで飛びつくことが出来る。というような若いプレーヤーの特性をうまく導くことができれば十分面白いものは作れるのである。<br>こういう考え方をするようになったバックボーンにはアンサンブルノマドを率いる天才ディレクター佐藤紀雄の仕事ぶりを２０年以上にわたって横目で見続けられたことがある。<br>「のりおさん」（とメンバーたちは呼んでいるのだけど）は、質の高い演奏と、質の高い企画の両立という高い目標を掲げながら、基本的には自分自身もアンサンブルノマドのファンであり、自分が「聴きたい」と思うことをプログラムして聴くことを心から楽しみ、そのようなありかたが結局はある種の批評ですらある、という風に２０年ノマドを率いる経験の中から達観するに至った人なのであり、日頃から僕がぜひ見習いたいと思っているスタンスである。<br>もうひとつ、２００９年に「森山開次作品集」で共演して以来２０１７年のシーズンには佐渡島と東京・小金井公園での薪能にはじまって年末のNHKでの特別番組まで、何度となく共演した観世流能楽師津村禮次郎さん。<br>重要無形文化財（こう呼ばれることを津村先生自身は避けたがってるようだったが）で、伝統的な能楽の世界では限りなく自由に動けるはずの津村先生はしかし、それに飽き足らずバレエやコンテンポラリーダンス、演劇、果てはガムランとも積極的に異分野コラボレーションに挑んでいる人なのである。<br>共演した番組のインタビューで「面（おもて）と装束をはずした時の生の能楽師の肉体で何ができるか見極めたい」というふうに語っていた言葉は、間違いなく本心からのものなんだなと、数少ない共演経験からもひしひしと感じさせてくれた。<br>そんな津村先生のスタンスをはたから見ていて、ふと思い至ったキーワードが「ホスト」<br>昨今SNS時代で、いわゆる「クラシック業界」近辺も、「ネットリテラシーに長けていて」「見た目の良い」若い世代にアドバンテージが大きく傾いていることは否めないが、彼らのめあては、一様にいかに自分を大きく、カッコよく見せて「ゲスト」然と振る舞うか、ということに集約されているように見える。<br>佐渡島に薪能をやりに行った時、数十人のメンバー一行の交通の手配、宿の手配、食事の手配を津村先生は自分一人で淡々とこなしていた。そしてその薪能本番、月に向かって謳う津村先生と、踊り狂う森山開次さんを後ろから見ながら思う存分フルートを吹くのは至福だったのである！<br>芸事の究極は「ホスト」になり得るかどうかだと思った。そのような本番にプレーヤーたちを導き、観客を夢幻の世界に旅させて魅了するという「ホスト」である。<br>思えばノマドの「のりおさん」も同じことをやっているのである。<br>お客さん気分の「ゲスト」でいるうちはまだまだである。<br>ということで、冒頭の話に戻り締めくくると、僕も今年５０歳になるわけで、「ホスト」になりきるのはまだ力不足かもしれないけれど、あるべき姿は見えてきてるね。<br>って、話でした。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>写真THE FLUTE編集部</p>



<figure class="wp-block-image"><img decoding="async" width="1024" height="683" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2019/04/IMG_0703_xlarge-1024x683.jpg" alt="" class="wp-image-3668" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2019/04/IMG_0703_xlarge-1024x683.jpg 1024w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2019/04/IMG_0703_xlarge-735x490.jpg 735w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2019/04/IMG_0703_xlarge-768x512.jpg 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2019/04/IMG_0703_xlarge-750x500.jpg 750w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2019/04/IMG_0703_xlarge.jpg 1500w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></figure>
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			</item>
		<item>
		<title>てふてふもつれつつかげひなた</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/450</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 30 Sep 2016 14:04:04 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
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					<description><![CDATA[私、木ノ脇にもゆかりの深いジパングプロダクツより、これまた普段から何かとつながりのあるヴァイオリン甲斐史子さんとピアノ大須賀かおりさんの二人組み「ROSCO」の新しいアルバム「てふてふもつれつつかげひなた」は木ノ脇が珍し [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>私、木ノ脇にもゆかりの深いジパングプロダクツより、<wbr />これまた普段から何かとつながりのあるヴァイオリン甲斐史子さん<wbr />とピアノ大須賀かおりさんの二人組み「ROSCO」<wbr />の新しいアルバム「てふてふもつれつつかげひなた」<wbr />は木ノ脇が珍しく作曲家の顔だけで仕事してるCDです。</p>
<div>アルバムタイトル「てふてふもつれつつかげひなた」が、<wbr />木ノ脇の作品のタイトルでもあり、<wbr />これはもともと種田山頭火の句です。</div>
<div></div>
<div>大須賀さんがROSCOとは別の名義で委嘱してくれたこの曲です<wbr />が、こうして聞いてみるとタイトルといい、<wbr />曲の響きといいROSCOのふたりにぴったりな気がします。</div>
<div></div>
<div>自分の作品だけでなく全体にとてもよくできた、<wbr />聴いていて気持ちのいいアルバムだと思います。</div>
<div></div>
<div>「現代音楽」にいまいち踏み込めないな、<wbr />というふうに考えてる人には最もお勧めしたいアルバムでもありま<wbr />す。</div>
<div></div>
<div>ストラビンスキーの「デュオコンチェルタンテ」<wbr />から僕の曲につながる流れがとても自然で、<wbr />まるでひとつながりの曲のようにも聞こえるのですが、<wbr />僕の曲にはいたるところに即興的に演奏する仕掛けがあって二度と<wbr />同じ演奏にならない、というのがテーマでもあり、<wbr />これはストラビンスキーが即興演奏をひどく嫌っていたこととあわ<wbr />せて考えると、とても興味深いです。</div>
<div></div>
<div>値段も１０００円とお手頃なので是非、<wbr />ROSCOの世界を体験してみてはいかがでしょうか？</div>
<div></div>
<div><a href="http://www.zipangu-label.com/product/84" target="_blank" data-saferedirecturl="https://www.google.com/url?hl=ja&amp;q=http://www.zipangu-label.com/product/84&amp;source=gmail&amp;ust=1475330278657000&amp;usg=AFQjCNF_fkito0r4t8z90CAKPmRe171wcQ">http://www.zipangu-label.com/<wbr />product/84</a>」</div>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
	</channel>
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