<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>kinowakidogen.com</title>
	<atom:link href="https://kinowakidogen.com/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://kinowakidogen.com</link>
	<description>Flutist</description>
	<lastBuildDate>Sun, 30 May 2021 01:37:47 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	
	<item>
		<title>７月２９日「どーげん「を」プロデュース」</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/7276</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 30 May 2021 01:37:47 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kinowakidogen.com/?p=7276</guid>

					<description><![CDATA[７月２９日に独演のコンサートを早稲田のトウキョーコンサーツラボでやる予定。「どーげんをプロデュース」という新しく始めるシリーズの一回目で、今回は作曲家でプロデューサーの福井とも子さんが「どーげんをプロデュース」する、とい [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><img fetchpriority="high" decoding="async" width="768" height="1024" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/05/f25170ae9cd534ad804c73699de06018-768x1024.jpg" alt="" class="wp-image-7299" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/05/f25170ae9cd534ad804c73699de06018-768x1024.jpg 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/05/f25170ae9cd534ad804c73699de06018-735x980.jpg 735w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/05/f25170ae9cd534ad804c73699de06018-1152x1536.jpg 1152w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/05/f25170ae9cd534ad804c73699de06018-1536x2048.jpg 1536w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/05/f25170ae9cd534ad804c73699de06018-750x1000.jpg 750w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/05/f25170ae9cd534ad804c73699de06018-scaled.jpg 1440w" sizes="(max-width: 768px) 100vw, 768px" /></figure></div>



<p class="wp-block-paragraph">７月２９日に独演のコンサートを早稲田のトウキョーコンサーツラボでやる予定。<br>「どーげんをプロデュース」という新しく始めるシリーズの一回目で、今回は作曲家でプロデューサーの福井とも子さんが「どーげんをプロデュース」する、という内容。<br>福井さんが考えてくれたプログラムは以下の通り。</p>



<p class="has-small-font-size wp-block-paragraph">　　エンノ・ポッぺ： フルートのための１７の練習曲、第３巻(1993/2009)日本初演 &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;<br> 　　Enno Poppe : 17Etuden fur die Flote,3.Heft（←正確には添付「スクリーンショットA」） <br><br>　　マティアス・ピンチャー：独奏フルートのための「ビヨンド（変遷の体系）」(2013) &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; <br>　　Matthias Pintscher : “beyond(a system of passing)” for flute solo フランコ・ドナトーニ；ピッコロのための二つの小品「巣」から抜粋 <br>　　Franco Donatoni ; &#8220;NIDI&#8221; Due pezzi per ottavino &nbsp; &nbsp;&nbsp; <br><br>　　ステファノ・スコダニッビオ：バスフルートのための「カルタヘナへの帰還」(2001)日本初演 &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; <br>　　Stefano Scodanibbio : Ritorno a Cartagena per flauto basso &nbsp; &nbsp; &nbsp;&nbsp;<br><br>　　レジス・カンポ：フルートのための「スフィンクス」(2002)東京初演 &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; <br>　　Regis Campo : Sphinx, pour flute（←正確には添付「スクリーンショットB」） <br><br>　　ロバート・ディック： 独奏フルートのための「炎は周りばかり回っていてはいけない」(1980) &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; <br>　　Robert Dick : FLAMES MUST NOT ENCIRCLE SIDES for flute alone &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; <br><br>　　ブライアン・ファーニホウ：独奏アルトフルートのための「シシュフォスの帰還」（2010日本初演 &nbsp;&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; <br>　　Brian Ferneyhough : “Sisyphus Redux” for solo alto flute &nbsp;&nbsp; &nbsp; &nbsp;&nbsp; &nbsp; &nbsp;&nbsp; &nbsp; &nbsp;&nbsp; &nbsp; <br><br>　　ドミトリー・クルリャンツキー：バスフルートのための「不誠実な読み手」第２番(2001）日本初演 &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; <br>　　Dmitri Kourliandski : FL［falsa lectio］#2 </p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>まだ東京では初演されてない、２１世紀に入ってからの新しい作品、というのに比重がある感じ。<br><br>そして一通り楽譜に当たってみた印象では、みんながよく知ってるつもりの、すでに珍しくはない「フルート」という楽器から、意想外の響きを引き出す、粒揃いの作品ばかり、というプログラム。<br><br>今回以降、不定期ではあるけれどこの演奏会についての集中連載。</p>



<hr class="wp-block-separator"/>



<p class="has-medium-font-size wp-block-paragraph"><strong>「息のニュアンスについて」</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">少なくともポッペ、ピンチャー、カンポ、ファーニホウの作品で、作曲家たちはフルートの「息」のニュアンスを詳細に、あるいは繊細に指定して、それぞれに個性的なフルート特有の表現を模索しているように見える。<br><br>例えばカンポの「SPHINX」なら、４分音符が連なるシンプルな譜づらと、プリミティブと言っていいくらいの明るいモーダルな響きが特徴だが、「息＋音」「息のみ」、それと通常の奏法という三つのモードを使い分けて、シンプルな中にもいろどりに満ちた音楽を目指すことが示唆されているようである。<br><br>演奏する側の実感では「必ずなんらかのピッチにはなってしまうと考えれば「息のみ」というのは机上の空論だ！」と屁理屈をいうこともできるが、「三つのモードの使い分け」を目指していることが分かりやすくはっきりしてる譜面なので、「息のみ」（Soffio solamente）と指定されている音を、他のモードと明瞭に区別できるような響きを作る方法を探すのが積極的なプレーヤーの努力、と考えたい。<br><br>管楽器の中でもリードを介さず、直接楽器に息を吹き込む原理のフルートにおいて、「「息」のニュアンスをいかに使うか」というのはもともと本質的で大きなテーマだと考えられる。<br><br>にもかかわらず、それが現代音楽の時代になるまで詳細に語られてこなかったのは、記譜法の問題が大きいように思う。<br><br>１８世紀になってたどり着いた、グローバルに統一された記譜法の問題の一つは、往々にして「繊細な表情の説明を欠く」ということのようだ。<br><br>楽譜に書ききれないそのような微妙な表現は、演奏者に一任されるか、とるに足らない誤差のような現象として軽視されてしまっていた。<br><br>しかし音楽のスタイルが変遷し、作曲家がデリケートな表現を楽譜に書き記したいと思っても、２０世紀の中頃まで基本的な楽譜の書き方は変わらなかった。<br><br>後期ロマン派の作曲家たちが楽譜に書き込む、長くて抽象的な表情の指示や演奏法の細かい指示などを見ていると、彼らがすでに既成の記譜法に対して感じていた大きなフラストレーションが伝わってくるようである！<br><br>１９４５年以降の現代音楽の黄金時代に楽器法の実験と記譜法の実験は馬車の両輪のように働き、劇的な変化の道を邁進した。<br><br>フルートで「極端に息っぽい音」「airly sound」「blowing noise」その他、数えきれないほどの言葉で説明されてきたイレギュラーな音色は当時は珍しく、そして今やそれほど驚くような奏法では無くなっているように思える。<br><br>このような楽器の使い方を「オーソドックスな奏法」に対する「汚し」のようなものと考えてしまうと、途端に演奏は奥行きを欠いた力のないものになってしまう。<br><br>「息」のニュアンスがフルートにとって本質的なものであり、無限の中間的段階のグラデーションの中を移動する豊かな色彩の世界、と考えればクラシックな演奏も変わってくるし、今回のようなプログラムの作品を積極的に組み立てることにもつながってくる気がするのである。<br><br>「息」のニュアンスは２０世紀に発見されたものではなくて、記譜法が変遷した事により再評価され復権を果たしたのだと考えたい。<br><br>それを武器にして無限の表現の可能性を手にしているのは作曲家たちというより、我々プレーヤーの方である、と考える事にしようと思う。<br><br>２０世紀以前の音楽がフルートに対して潜在的にリクエストしていたのに、楽譜に書かれなかった様々な表情たちが逆に照らし出されるような気分にならないだろうか！</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>水の寓話　その３</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/6571</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 19 Jan 2021 12:30:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kinowakidogen.com/?p=6571</guid>

					<description><![CDATA[水の寓話 &#8211; 詩のこと 実を言うと「水」をモチーフにしたコンセプチュアルな演奏会をやったのは今回がはじめてというわけではない。 ２０１８年には神奈川県の大磯にあるMKホールというところで「水のいのち」というタ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">水の寓話 &#8211; 詩のこと</h2>



<p class="wp-block-paragraph">実を言うと「水」をモチーフにしたコンセプチュアルな演奏会をやったのは今回がはじめてというわけではない。 <br><br>２０１８年には神奈川県の大磯にあるMKホールというところで「水のいのち」というタイトルの演奏会をやったことがあった。 編成も内容も違っていたけど、終わってからやっぱり同じ「水」というテーマでまた形を変えて何か作ってみたい、と強く思ったのを覚えている。 <br><br>以下、今回のプログラム前文から抜粋 <br><br>「「水」ほど我々の生活に不可欠でなお、美しいものがあるだろうか？ 水に触らない日はなく、「音」を聴かない日もないのである。」 <br><br>そう、そして「水」ほどイメージを喚起し触発するものはなく、さらにタイトルの示す通り、我々の生活を支配するあらゆる摂理を思い出させる寓意に満ち満ちているものもないのである。 <br><br>２０１８年「水のいのち」のときは滝沢華子さんという女優さんが参加してくれて詩の朗読をしてくれた。 衣装もそれなりにこだわって「ウンディーネ（あるいはオンディーヌ）」を彷彿とさせるようなものを用意したのだった。 <br><br>今回はもっとコンパクトなチームだったので朗読は自分と石田彩子さんで分担してやることにした。 <br><br>今回使用したテキストは、 <br><br>・大岡信の連作詩「水の生理」から抜粋<br> ・吉原幸子の連作詩「オンディーヌ」から抜粋 <br>・アントニオ・タブッキ「夢の中の夢」から抜粋<br> ・源氏物語「浮舟」から抜粋 <br><br>プログラムの中核になっているのがライネッケの「Undine」で、ドビュッシーの「Ondine」があり増田達斗さん作曲の「オンディーヌ」と、「水の精」をめぐるいくつものバリエーションのような形になってるから、朗読に使うテキストにフーケーやジャン・ジロドゥを使うのはちょっとひねりが足りないように感じて、ジャン・ジロドゥからのさらなるエコーである吉原幸子さんの詩を使うことにした。 <br><br>「曲と演奏が全てを語らなければならない」というのがたてまえではあるんだけど、抽象的な言葉が音楽と補完的に働きあって、イメージの方向づけをしてくれるのなら、今回のようなやり方も間違ってはいないと思う。 <br>は後になって気が付いたんだけど、ステージの後ろのガラス壁面からの眺めが、遠く海を望む風景だったらしいことも効果的だったことでしょう。 <br><br>おまけその１ <br>演奏会の次の日、観に行った映画がやはり偶然「水」に関係するものだった。 昨年亡くなったモダンアートの巨匠クリストが生前最後に挑んだ巨大プロジェクトを追うドキュメンタリー。 スイスにある大きな湖に数キロメートルにわたる巨大な浮き桟橋を設置し、人々に「水の上を歩く」体験をさせるというもの。 クリストの「ヴァーチャルではダメなんだ。本物のスイスの冷たい空気の中、本物の水を足下に感じながら渡っていく経験を共有したいんだよ」という言葉が、現在の状況とも響きあって感動的でした。 <br><br>おまけその２ <br>演奏会のお客さんの中に大学時代、大岡信さんの講義を受けていたという人がいて、講義の内容自体もすごく面白かったことに加えて、毎回大岡信さん自身披露する朗読が、えも言えず素晴らしかったことを教えてくれたのでした。 <br><br>聴いてみたかったもんです。 <br><br>「水の寓話」にまつわるよもやま話はこれにて。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br></p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><img decoding="async" width="724" height="1024" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-724x1024.jpg" alt="" class="wp-image-6559" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-724x1024.jpg 724w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-768x1086.jpg 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-1086x1536.jpg 1086w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-1448x2048.jpg 1448w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-750x1060.jpg 750w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-scaled.jpg 1358w" sizes="(max-width: 724px) 100vw, 724px" /></figure></div>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>水の寓話 その２</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/6547</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 18 Jan 2021 15:23:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kinowakidogen.com/?p=6547</guid>

					<description><![CDATA[チームのこと 今回はフルートは持ち換えなし、ピアノとのデュオって編成で一晩のコンサートだったから、ずいぶんクラシカルで洗練された印象だったのではないだろうか。 加えてロマン派のレパートリー、ライネッケのソナタ「Undin [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">チームのこと</h2>



<p class="wp-block-paragraph">今回はフルートは持ち換えなし、ピアノとのデュオって編成で一晩のコンサートだったから、ずいぶんクラシカルで洗練された印象だったのではないだろうか。<br><br> 加えてロマン派のレパートリー、ライネッケのソナタ「Undine」がプログラムの中核をなしている形だったからなおのこと。 <br><br>しかし木ノ脇、増田、石田の３人ともが新曲を作ったのであり、演奏者みんなが作曲家でもあるリハーサルというのはとても積極的で、なおかつ自由でもある。 <br><br>作曲家であり、同時にプレーヤーでもあるということは、さらにまた積極的で自由な「聴き手」であることをも思い出させてくれる。 <br><br>（石田さんの新曲は当初の予定ではフルート２本とピアノ、という編成になっていて、彼女自身も演奏に参加する予定だったけど、作曲中に方針が変わり、彼女は作曲家の役割に徹することになった。つまり方針の転換でリハーサルにおいては「聴き手」の方に大きく振れるメンバーになったわけだけど、そういう人が居るのと居ないのとでは全然雰囲気も結果も変わってくるのである。ちなみに彼女は演奏こそしなかったけど、今回の重要なファクター「水にまつわる詩」の朗読者になってくれた） <br><br>特に新曲としてフルートのソロ曲を作曲した増田さんにとってピアノを弾いている瞬間と、自分の新曲の響きをリハーサルで確かめている時間は両極端の体験だったのではないだろうか。 <br><br>この雰囲気は「Undine」のリハーサルにさえ影響があったと思う。 「ルーティーンな義務感」のようなものから離れたところで、このロマン派の名曲にアプローチできたと思うのである。 <br><br>チラシをやってくれた一森加奈子さんも目を引くデザインで花を添えてくれた。 チラシのデザインから本番の演奏まで一貫したイメージにできたのは彼女のおかげである。 <br><br>そしてもう一人、「チーム」というのなら、このコンサートの共同主催者であり、制作全般を引き受けてくれた野口恵三さんも、実に積極的なメンバーだったことを紹介しておきたい。 <br><br>そもそもこの演奏会のきっかけは野口さんだったと言ってもいい。 彼が若手のフルーティスト達を支援して開催していた演奏会のシリーズの中から、木ノ脇が若手フルーティストたちとコラボレーションする演奏会が何度か続き、その言わば「番外編」として今回の演奏会があるわけだから。 <br><br>「自己演出はあんまり上手くないけど才能のある人たち」を支えてやろう、というのが野口さんの「気概」なのであり、その気概に自分のアイデアも値すると思ってもらえたなら、ちょっと誇らしい。 <br><br><br>我々は伯爵の横暴に知恵と勇気で立ち向かうフィガロとスザンナとケルビーノ、<br><br> 我々は銀河鉄道のコンパートメントに向かい合って座り、語り合い旅するジョバンニとカンパネルラだった。 <br><br>我々は進軍する蜀の武将たち、 <br><br>我々は破滅に向かって突き進むロメオとジュリエットだった。<br><br> 我々は二条院で寡黙に睦み合う源氏の大将と紫の上、<br><br> 我々は・・・・ <br><br>だが旅が終わったなら「チーム」は解体され、それぞれがそれぞれの日常に溶けていくだけである。 <br><br>しかし「再会」もまた可能なのである！</p>



<figure class="wp-block-image size-large"><img decoding="async" width="724" height="1024" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-724x1024.jpg" alt="" class="wp-image-6559" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-724x1024.jpg 724w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-768x1086.jpg 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-1086x1536.jpg 1086w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-1448x2048.jpg 1448w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-750x1060.jpg 750w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-scaled.jpg 1358w" sizes="(max-width: 724px) 100vw, 724px" /></figure>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>水の寓話 その１</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/6529</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 15 Jan 2021 14:05:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kinowakidogen.com/?p=6529</guid>

					<description><![CDATA[すべての人にとって異常事態続きだった咋２０２０年、３月から８月まで一つの演奏本番もなかったというのは自分にとってもやはり異常事態であり、雌伏の時でもあったから、続く９月以降の下半期に演奏案件が急に立て込んで、こんな状況で [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph">すべての人にとって異常事態続きだった咋２０２０年、３月から８月まで一つの演奏本番もなかったというのは自分にとってもやはり異常事態であり、雌伏の時でもあったから、続く９月以降の下半期に演奏案件が急に立て込んで、こんな状況でも実現できたということで一つ一つの演奏が普段以上に記憶に残ることになった。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 中でも、先月２３日に自主企画として企画した「水の寓話」は、冬の到来と共に感染者数がうなぎのぼりに上昇していたさなか、都内での開催であり、内容的にも実のあるものとなったと思うので、いくつか思うところを書き記しておきたい。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> ・楽器のこと<br> フルートはヴィンテージ物の楽器も含め選択肢が多いのだけど、自分は楽器のこと話し出すと止まらない、という手合いではない。<br><br> 「なんだって大丈夫だよ」くらいに思ってたつもりだったけど、自分なりのこだわりで楽器のセッティングを選んでたことを強く思いださせられたのだった。<br><br> 今回の会場の豊洲シビックセンターホールは、ステージの後ろの壁面がガラスで、さらにイタリアの「Fazioli」ってピアノが入っている。 「Fazioli」は一言で言えば「高級ブランドのピアノ」だけど、音の具体的なイメージは多彩なニュアンスが可能で、かつどちらかといえば「華やか」な方にベクトルが振れているという感じ。<br><br> 下手をすると硬くて、冷たい音になってしまう。 <br>後ろがガラスとなるとなおさら。 <br><br>そしてこのFazioliの蓋を全開にして、増田達斗さんのようなピアニストー「伴奏」というよりはアンサンブル志向の強い（と僕は思っているんだけど）プレーヤーが弾くピアノと、メリハリの効いた「対話」をしようと思ったら、フルートの方は相当力のある音が必要になってくる。 <br><br>現在主流の、「アンブシュアホールの内側にサイドカットががっつり入っている」タイプの頭部管だと息は入りやすい代わりに、ニュアンスが犠牲になってしまう。 <br><br>「力のある音が必要」とは言っても、二人だけの演奏である以上、音の薄くなる瞬間が無数にあるのであり、息のスピードを遅くした時、あるいは速くした時のフルート特有の音の「かげり」のような響きが聴こえてこないと面白くない。 <br><br>振動率が高いだけの「金」の管体でもダメだし、木管もうまくいかないと思う。 <br><br>自分の楽器はムラマツのSR。 <br><br>そして頭部管は田村隆さん製作のヘルムート・ハンミッヒタイプのもの。 この楽器なら息のスピードに応じて様々に変化する響きを演出してくれる。 <br><br>頭部管以下の胴体は普通のSRでも管厚が厚い「ヘビー」ってタイプなのがポイント。 <br><br>管が薄いと、スピードの速い息を受け止めきれない。 <br><br>余談だけど、作曲家のハインツ・ホリガーはフルートに「cuivre」って指定をすることがある。 <br><br>「cuivre」（キュイヴレ）というのは、まあ一般的にはホルンに対する指定であり、性格の強い響きが欲しい時に、ベルに深く右手を入れて、圧の高い息で演奏するやり方。<br><br> しかしあらゆる楽器を深く理解するホリガーは、フルートでもスピードの速い息を送り込めば「cuivre」（＝金属的な響き）になりうると確信したわけだ。 <br><br>なんという想像力の極北！ <br><br>そしてそれは正しいと自分も思う。<br><br> Fazioliのピアノの華やかにして強い響きの中から、フルートの叫び声みたいなcuivreが聴こえてくる場面を作るためにはこのセッティングが自分にとっては唯一無二って話でした。 <br><br>以下、次回に続く。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><img decoding="async" width="724" height="1024" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-724x1024.jpg" alt="" class="wp-image-6559" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-724x1024.jpg 724w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-768x1086.jpg 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-1086x1536.jpg 1086w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-1448x2048.jpg 1448w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-750x1060.jpg 750w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2021/01/1125_mizu_omote-1-scaled.jpg 1358w" sizes="(max-width: 724px) 100vw, 724px" /></figure></div>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>A Bone Flute</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/6252</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 28 Sep 2020 14:31:58 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kinowakidogen.com/?p=6252</guid>

					<description><![CDATA[１０月１６日、２３日のソロコンサート「The Other Flute」のチラシにのせた文章を今一度ここにも紹介しておきたい。 「原始人が空へ放り投げた骨が宇宙船に変わっても、未知のものへの畏れと好奇心は変わらない。 人類 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph">１０月１６日、２３日のソロコンサート「The Other Flute」のチラシにのせた文章を今一度ここにも紹介しておきたい。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">「原始人が空へ放り投げた骨が宇宙船に変わっても、未知のものへの畏れと好奇心は変わらない。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">人類は「老い」を迎えたか？ <br>それともまだ幼年期を出ないのか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">骨で作られた最初のフルートから数万年経っても、管に穴を穿つシンプルな基本構造は変わらない。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 洞窟の中で骨に息を吹き込んでいた原始人は、いまや練習室に閉じこもる孤独なフルート奏者。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">音楽は「老い」を迎えたか？ <br>まだ幼年期を出ないか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">これまで「フルートによる独奏」は最小の演奏形態であり、変化し続ける外の世界を映すミクロコスモスであった。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">一本の線が描く抽象、一本の線が暗示する全世界。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br> プログラムは作曲家たちが様々な実験を繰り返した２０世紀から２１世紀へ。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">かつて恐る恐る骨のフルートに吹き込んでいた「畏れ」と「好奇心」の息吹きはまだ失われていないか？ 現代の工業の粋を集めた金属の管体からは、数万年前の洞窟を満たしたささやきや叫びが変わらぬ強度で響いてくるか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">アンサンブルノマドのフルーティスト、木ノ脇道元がプレーヤー兼ガイドを務め、「The Other Flute」(もう一つのフルート)へいざなう、一本の線が啓く旅 」 </p>



<p class="wp-block-paragraph">このチラシで、木ノ脇自身の新曲は「Entering into the other flute」という曲名でアナウンスされているけれど、何度も作り直し、呻吟の末、タイトルも二転三転して「A Bone Flute」というものに落ち着きそうである。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">つまり「骨の笛」。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 上記の文章と響き合うような格好にした訳だけど、それだけでもない。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">演奏するにしろ作曲するにしろ「制約」という事にとても興味を惹かれてしまう。 例えばヴァレーズの「Density21.5」なら譜面通りにやるのはもちろん、ヴィブラート一切なし、テンポは絶対動かさない、という「制約」の中でやりたくなる。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">フルート一本だけの演奏で、とてつもなく大きなエネルギーを表現しているように思えるこの曲は、音色やニュアンスの落差のみで聴く人の想像力に訴えてこそ、高温の炉の中に入れられて様々な色の光を放っている金属の塊みたいな「危険を孕んだ凄み」みたいなのを表現できると思うからである。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">同じように、フルートを「二つの音しか出せない原始的な骨の笛」に見立てて、作曲してみる。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">宗教的か、あるいは民族的な何らかの理由により、二つの音をレガートでつなぐようなことも禁じ手なのである。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">そういう制約があっても、なんとかして多彩で豊かな響きを楽器から引き出そうとするのが、音楽における人間の変らぬ営みというもんではないだろうか？</p>



<p class="wp-block-paragraph"> というのが、今回の作曲のテーマともいえる。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">ということで、この後に及んで、まだ新曲に手を入れてる最中でございます。 暖かく見守って頂きたいですw</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>川島素晴個展へのコメント</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/6210</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 12 Sep 2020 22:44:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kinowakidogen.com/?p=6210</guid>

					<description><![CDATA[川島くんのこと 去年、このシリーズの３回目にあたる「双子座３重奏団」と川島くんのコラボレーションを興味深く聴いた。 「双子座」は、なんと言ってもバリトンの松平さんの歌が全体のトーンを作っていて、彼がナンセンスな言葉を発し [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<pre class="wp-block-preformatted">川島くんのこと</pre>



<p class="wp-block-paragraph">去年、このシリーズの３回目にあたる「双子座３重奏団」と川島くんのコラボレーションを興味深く聴いた。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 「双子座」は、なんと言ってもバリトンの松平さんの歌が全体のトーンを作っていて、彼がナンセンスな言葉を発し続けるうち、ピアノの中川さんとトランペットの曽我部さんも触発されたように言葉を発しはじめて・・・ </p>



<p class="wp-block-paragraph">というふうに川島くんは演奏会全体をデザインしていた様に思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 面白かったのは双子座の３人それぞれ、川島くんの音楽へ向かう姿勢が微妙に違って見えた事である。 例えば、松平さんは、川島君の考えるC級、というかナンセンスというか、とにかく「くだらない」音楽的ギャグを、これ以上ないくらい一生懸命、ある意味では「露悪的に」やってみせる（川島作品に限らず、これは松平さんという人の持っている固有のニュアンスともいえるんだけど）。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">そんなふうに前のめりに、ことさら「さむく」振舞って見せる事で何か表現の新しい地平が見えて来るんじゃないか、と期待してでもいるかのように。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">かたやピアノの中川さんは反対に、悪ノリがどこまで突っ走っても独特の繊細さと流麗なピアニズムを失わないまま、川島くんの音楽に寄り添い続けるしなやかさと洗練が特徴的。 極めて積極的なスタンスを保ってはいるんだけど。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">そして淡々とした態度の超絶技巧的トランペットでそこに色を添える曽我部さんというふうに。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">これはもちろん「双子座」の３人が元々持っていたチームとしての「個性」だったんだけど、川島くんの作品と化学変化を起こすことで爆発的にその個性が際立った演奏会だった。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">こんなふうに自分が受け止めたのは、川島くんとの付き合いが長いゆえの余裕ある鑑賞態度からなのか、あるいは川島くんの作品がこの２０数年ほどの間に周知されて、さまざまにコントラストに富んだ演奏解釈を許すほど懐の深い音楽に育ったからなのか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">そして自分が24年ぶりに彼とのコラボレーションに挑めば、双子座とはまた違った「現在の自分」なりの色が炙り出されるものなんだろうか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">＊＊＊＊＊ </p>



<p class="wp-block-paragraph">四半世紀ほど前、僕と川島くんは新進のプレーヤーと作曲家という存在だった。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">僕は多くの若きプレーヤーと同じく、ゆく末に思い悩み、しかし当面は現代音楽の世界で作曲家たちと聴きてたちを納得させるような仕事をする、というのが目標だった。 川島くんはそんな当時、最も密にコラボレーションしていた作曲家の一人で、「演じる音楽」という独自のテーマを掲げて道なき荒野を拓こうとしていた。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">若く、また未熟な僕はクラシック産業が暗黙に押し付けて来る紋切り型な美意識の圧力に反抗しつつ、誰もまだ聴いた事がない音楽を形にする仕事に明け暮れながら一方で、依然として「ゲンダイオンガク」と作曲家たちは謎のままだった。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">プレーヤー同士の間の気楽な親近感と違い、作曲家たちと自分のあいだには何という距離がある事だろうか！</p>



<p class="wp-block-paragraph"> しかしプレーヤーとして新しい次元を目指すには、この距離を埋める努力をするしかなく、このあと自分自身で作曲を試すようになるまで、この「距離」は硬いしこりみたいな違和感として自分の中にあり、そのしこりと最も激しく抗っていたのが、川島くんと最も密な共同作業をしていた95年〜99年くらいの時期だったんじゃないかと思い出すのである。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">今回の演奏会とプログラム的にも響き合っている、96年「Dogen Faetures 川島素晴」では、「視覚リズム法」と「Invention」という二つの作品で、楽器を用いない、身体と声を使った作品に挑戦した。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">人によってはこれは、いかにも奇を衒ったパフォーマンスに見えたかもしれないが、自分としては「フルート」という使い慣れた道具を離れたところで、川島素晴という作曲家が提唱する「演じる音楽」というテーマの「核」を、身をもって表現できるか、少しでも「作曲家との距離」を縮めようとする前のめりな努力だったのである。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">（最近、チェロの山澤慧さんがこの同じ「視覚リズム法」の演奏に挑んだり、ギターの山田岳さんがCDに声だけのパフォーマンス作品を収録したりしてるのを聴いて、単純に「すごいなあ」なんて感心してたんだけど、案外同じようなモチベーションでやってるのかもしれない） </p>



<p class="wp-block-paragraph">これは「作りなおす」という感覚に通じている。 子供時代から訓練して身につけたクラシック的な技術や身ぶりを削ぎ落としたとき、自分の身体と心に何が残っているか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">やり慣れた美意識に安住した途端に老化が始まるんじゃないのか？ </p>



<p class="wp-block-paragraph">川島くんが自身のテーマ「演じる音楽」を説明する際よく使う「異化」という言葉を拡大解釈すると、やり慣れた体の感覚を「作りなおす」試み、と云うこともできるかもしれない。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">２５年前、目新しいテーマだったものが、本質的なものである事がはっきりしてきた現在、再び濃い共同作業ができるのが楽しみである。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">「演じる音楽」とは、音楽が本来持つ「若々しさ」へ通じ得るバイパスだと考えるのであるならば。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ソロコンサートへのメモ＃９</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5974</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 06 Jun 2020 15:21:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kinowakidogen.com/?p=5974</guid>

					<description><![CDATA[「The Other Flute」 まず演奏会の延期日程決定。 １０月１６日（金）１９００開演 場所は同じ早稲田・東京コンサーツラボ。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ このソロの演奏会には、自分が２０代の頃に [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">「The Other Flute」</h2>



<p class="wp-block-paragraph">まず演奏会の延期日程決定。 <br><br>１０月１６日（金）１９００開演 <br><br>場所は同じ早稲田・東京コンサーツラボ。<br><br>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ <br><br>このソロの演奏会には、自分が２０代の頃にやっていたスタイルに一旦戻ってみて スタンスを仕切り直す、というような意味合いを込めたつもりで、前回までは演奏する予定の曲たちに対する手前勝手な見解を綴ってみたのだった。<br><br> しかし、現在の自分の活動とも照らして先に進むと言う意味で考えるとそれだけでは面白くないので、自分でも１曲作ってみることにした。<br><br> ３０代以降、機会があるたびさまざまな場面で、自己流ではあるけど作曲を試してきたのである。 <br><br>もちろん体系的な訓練を積み、年中作曲のことばかり考えている人たちには敵うわけがないところもあるのであり、自分を「作曲家」なんて自称するのは実におこがましい所業だと自覚しつつも、作曲をすることで演奏に対する視野も間違いなく相互作用的に広がる、という感覚を一度おぼえると「創作」の方向に対しても自分の可能性を試すように働かないとバランスが取れない気がしてしまう。 <br><br>「演奏」に軸足のある人間が「創作」にまで手を広げるのは、本来ならとても自然な欲求だと思われるし、他人が作ったものをひたすら演奏するだけのスタイルと違って、拠って立つ足場は広くなり風通しが良くなる。<br><br> 月並みな言い方かもしれないが、「創作」というのは天井知らず、無制限の感覚なのであって、そのことが演奏に与える影響は計り知れないのである。<br><br> そして何より「自分がこうしたい」という主語が、確固としたものになってくるのを感じる！ <br><br>今回にしても「自分も作る」という立場から他の作曲家たちの曲を眺めることでしか生まれない「共感」があるように思うのである。 <br><br>今回、演奏会のタイトルは「The Other Flute」とした。 <br><br>これはアメリカのフルーティストで作曲家のロバート・ディックによるフルートの研究書のタイトルからとったのである。<br><br> 「伝統的なありようとは違う、フルートの別の可能性」とでもいうような意味合いとニュアンスだろうか。<br><br> 自分の現在地を模索するにはなかなかの言葉だと思ったのである。<br><br> 新曲のタイトルも「Entering into the other flute」としようと思う。<br><br> １９７５年に出版されたディックの本のタイトルを借りて、２０２０年の「The Other Flute」のイメージを打ち出すことができるだろうか・・・・・・・ <br><br><br><br>演奏会を１０月に延期にしたことで、この”メモ”の集中連載も、ちょっと間抜けなタイミングになってしまった感が否めない。<br><br> ここで一旦連載を中断して、夏の終わり頃からまた、新曲の進捗で呻吟する「創作ノート」という形で再開してみようかな、と目論んでおります。 <br><br>それではみなさま、しばし！！<br></p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><img decoding="async" width="554" height="497" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/06/10.png" alt="" class="wp-image-5980"/></figure></div>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ソロコンサートへのメモ＃８</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5940</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 23 May 2020 15:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kinowakidogen.com/?p=5940</guid>

					<description><![CDATA[福井とも子「Colorsong on B」 ＃５「Dark Matter」から＃７まで、期せずしてひとつながりの読み物のようになってしまった。 日本音コン作曲部門の演奏審査取りやめの決定の件をネタにしながら「楽譜と音楽」 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">福井とも子「Colorsong on B」</h2>



<p class="wp-block-paragraph">＃５「Dark Matter」から＃７まで、期せずしてひとつながりの読み物のようになってしまった。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 日本音コン作曲部門の演奏審査取りやめの決定の件をネタにしながら「楽譜と音楽」、ひいては「作曲家とプレーヤーと聴き手」の関係というところまで考えを進め、ある程度長い文章でないと説明できない見解を残したかったのだと、今読み返してみると思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> かつてチャールズ・アイヴズはアメリカ思想史の巨人たちへのオマージュとも言える「コンコードソナタ」を作曲した際、各楽章を解説する「Essays before a sonata」という一冊の本を書き上げ、その文章と音楽を合わせて完結した表現物とした。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 自分は演奏者なので、最終的には「演奏」で全てを表現しないといけないが、「フルート独奏」というもっとも小回りが利くはずの演奏形態を、このような文章で自ら解説して見せることで、とてつもなくハードルが上がっているのを自覚しないわけにはいかないのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> なんたるM気質！ </p>



<p class="wp-block-paragraph">＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ </p>



<p class="wp-block-paragraph">最後に紹介する福井とも子もまた、もっとも若い時代から親交のある友人のひとりで作曲家である。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">現在の彼女にはプロデューサーとしての顔もあり、関西のプレーヤー中心の「Next Mushroom project」と、日本現代音楽協会副理事長として、先鋭的で面白い響きを聞かせてくれる才能ある仕事振りを発揮している。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> この「Colorsong on B 」が出来た当時は、まだそういったプロデュースの仕事には手を染めていなかったが、作曲を通じて試していたことと、現在プロデュースで総合的に表現しようとしていることは通底してるんだろうなと思う。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 新しい響きへの飽くなき探求という意味で。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">「Colorsong」という言葉は彼女のオリジナルな造語で、「音色の実験」あるいは「音色の可能性による音楽」といった意味合いを込めようとしたのだと思われる。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> フルートの可能性を探るべく、作曲に先立って、彼女との間にも綿密なインタビューが何回もあった。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">そんなやりとりの中で提示されたたくさんの可能性の中から、厳選した技法を使って、「B」という単一の響きが多様にに変化していく、ストイックにして華やかなフルート独奏の魅力的な小品は生まれた。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">この曲の、徹頭徹尾シンプルでミニマルな印象を作り出しているのは最初から最後まで続く、「B」の同音トレモロ。 特殊な指使いを使うことで生まれる、同じピッチで音色の微妙に異なる音の実験（厳密に言うと、とても微妙なレベルで音の高さも異なる） </p>



<p class="wp-block-paragraph">単純極まりないトレモロの連続の中に、点描風の音形が異なった系統の連符で挿入される。 これにより二重に重なったリズムは、規則正しいマスの目にほつれと破れを生んでいく。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> そして「フルートを吹きながら声を出す」ということの可能性。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> 現代音楽では「管楽器と声」のコンビネーションは特別珍しくはなく、特にフルートは構造的にフレキシブルなので、すでにこの曲に先立ってさまざまな実験がされてきたものである。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">「Dark Matter」や「Unity Capsule」でも声は多用されているけど、この曲でとくに目論まれているのは、楽器の音と声が混ざったときに起こる、「差音」と言われる現象。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">これにより二重に重なった音は三つ目の音を生み三重になる。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">シンプルさの極致からおそるおそる始まる響きが、一気に複雑な様相を帯びる瞬間。 この曲を「音色とリズムの実験」に終わらせることなく、音楽にしようと思ったら、「Bのトレモロ」のシンプルでありながら微細な色彩の変化に聴き手の注意を常に引きつけておく演奏が必要になる。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> オスティナートへの強い意志と特殊奏法への理解が不可欠という意味で、やはりこの作品も「独奏フルートのための技巧的な作品」の群れに入れたいと思うのである。</p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><img decoding="async" width="687" height="531" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/color.png" alt="" class="wp-image-5946"/></figure></div>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ソロコンサートへのメモ＃７</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5913</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 16 May 2020 15:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kinowakidogen.com/?p=5913</guid>

					<description><![CDATA[閑話休題、Brian Ferneyhough;Unity Capsule 前回は日本音コン作曲部門の方針変更で演奏審査がなくなったことをネタに、「音楽」と「楽譜」の間の繊細かつ、矛盾をはらんだ奇妙な有りようについて出来る [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">閑話休題、Brian Ferneyhough;Unity Capsule</h2>



<p class="wp-block-paragraph">前回は日本音コン作曲部門の方針変更で演奏審査がなくなったことをネタに、「音楽」と「楽譜」の間の繊細かつ、矛盾をはらんだ奇妙な有りようについて出来るだけ「自分なりの」言葉に置き換える試みをするつもりだった。 </p>



<p class="wp-block-paragraph">普段はあまり意識しない、自分自身の演奏へのスタンスも浮き上がって見えてくるんじゃないか、という期待からだったが、結局「楽譜だけでは音楽は成立しないのだ！」といった、月並みで青臭い結論になってしまったようで反省している。</p>



<p class="wp-block-paragraph"> そんなものは少しでも実践の場にいる人なら誰でも知っていることで、今更自分が言うようなことでもないのである。<br><br> 辛抱強く寛容な読み手の皆さんにはお詫び申し上げたい。<br><br> 我ながら、なんという凡庸な表明のために字数を費やしたことか！<br><br> 　しかし一般論を離れて個別の作品にあてはめて考えてみれば、楽譜の上での表現ひとつとっても、それぞれに違った個性の面白さが際立ってくるはずである。<br><br> また、演奏を「楽譜を音に落とし込んで行くルーティーン」という風に説明した言い方も、別に否定や批判をしてるわけではない。 <br><br>雲をつかむように思える仕事を楽譜という形に変換し、反復練習という型にはめてわかりやすく理解するのはとても合理的なルーティーンである。「抽象表現を身体感覚に落とし込むルーティーン」と言い換えてもいい。<br><br> ところが、際立った作品というのはこの「合理的ルーティーン化」と言うプロセスにすらハードルがある。<br><br> ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ <br><br>Brian Ferneyhough作曲するところの現代音楽ははまさしくそんな作品たちではないだろうか。<br><br> ブライアン・ファーニホウはNew Complexity（新しい複雑性）と言われる作曲の一派の先駆的存在といえる。<br><br> 「複雑性」と言われるだけあって、「Unity Capsule」の譜面を一瞥した時の印象は、稠密に書き込まれた音符や指定の数々、独奏の作品でありながら２段にわかれたスコア（場所によっては３段！）などで、真っ黒けの譜面づらに、どんなプレーヤーでもだいたい最初は引いてしまう。<br><br> ２０代の自分は「チャレンジ！」というモチベーションのみでこの作品の演奏に挑んだものだった。<br><br> 「このものすごい譜面を是非とも音にしてやろうじゃないか！」というわけである。<br><br> そこで、まるで迷路を覗き込んだような第一印象から一歩下がって、改めて譜面を眺めてみる。<br><br> 音の高さと、さまざまな特殊奏法を指定する符頭は相変わらずバリエーションに富んだ様相で目も眩むようだが、時間軸を縦に割っていく「リズム」のレベルでは、独特の個性的なやり方をとっていることがわかる。<br><br> たとえば、4/8の小節全体をカッコで括って、「25:24」なんて書いてある。<br><br> これはつまり、<br><br> ８分６連符×４＝２４<br><br> の中に、無理やり２５個の玉を入れる、ということだ。<br><br> さらにその「２５」の玉の３つ目から７つ目までの５つの玉をまたカッコして「8:5」といった調子。<br><br> 「連符」を多用して、繰り返される「再分割」そして（あるいは）（さらなる）「細分割」というのがこの作曲家の（少なくともこの時代の）特徴的なやり方である。<br><br> この曲に挑戦した時の自分には、ここにジレンマがあった。<br><br> こんなにも複雑に指定されたリズムをどこまで正確に再現できるものかということに。<br><br> 村上春樹の小説「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に、マッチ棒を使った「百科事典棒」の話が出てくる。<br><br> アルファベットの文章を数字に変換する。<br><br> その数字を小数点以下数10桁までの数値に置き換えた、その長さの分だけマッチ棒の端から正確に計測して刻み目を入れる。<br> その刻み目の座標（＝マッチ棒の端からの長さ）が一つの項目を説明する文章になる。<br> そういった刻み目を無数に入れることで、マッチ棒による辞書が出来上がるというわけだ。<br><br> あくまでも理論的には。<br><br> 果てしなく正確に計測する技術と、同じくらい正確に刻み目を入れる技術があれば。<br><br> 「百科事典棒」は実現することのない「思考実験」として面白がることができるが、実際に演奏されることを目的とした楽譜になるとどうだろうか？<br><br> そしてさらにハードルが高いのは、このような複雑なリズムの記譜法は、プレーヤーの技量に対する挑戦や記譜法の実験ということだけが目的ではない。 この入り組んだ複雑さは、先史時代の原生林のようなニュアンスに富んだ豊かな響きのバリエーションを作りたい、という動機から来ていると思われる。<br><br> 正確さだけの、パズル的で機械的な、無味乾燥な演奏に終わっては失敗なのである！<br><br> ファーニホウは、作曲の段階では高度に数学的な手順を経ることで、無限のジャングルを「ソロフルートの十数分の音楽」という小さな枠に押し込める魔術を実現した。<br><br> そういう意味では「Unity Capsule」というのは「言い得て妙」なネーミングである。 興味をそそる響きたちが偶然ではなく、ギリギリの整合性を充たした上で、極めて限定された時空の中に結合されてひしめいているわけだから（その整合性を得るためにこのような複雑な記譜法が必要だった、とも言える）。<br><br> これを演奏として実現するのは（更なるたとえ話を許してもらうなら）、「高すぎるところにゴールリングのあるバスケットボール」をやるようなものだと思ったものだった。<br><br>そのようなゲームでは、ボールがゴールネットを揺らす回数は激減し、プレーヤーどころか審判にすら「実際にゴールリングを通ったかどうか」定かでなくなってしまう。<br><br> そうなると、「ゴール付近までボールが飛んでいけば得点とみなす」というような、妥協のすえのローカルルールが横行するようになるのではないか？<br><br> 近似値でよしとするようなゲームには、どこまでいっても大きな達成感が伴うことはないので、最初の意気込みに反して「Unity Capsule」は「何となくやらなくなった曲」となってしまった。<br><br> 複雑な楽譜を演奏してみせる自己満足のためだけなら、他にやるべきことがあるんじゃないだろうか？<br><br> と考えるようになっていったのだ・・・・・。<br><br><br><br> しかし思えば、自分はこの曲の魅力をきちんと評価するのを忘れていた。<br><br> プレーヤーとしての自分が「これでいいのか？」と疑問に苦しみつつ演奏し、情報の森のような楽譜の中を駆け抜けるとき、聴き手たちの耳には、美しく興味深い響きの瞬間が何度も訪れていたことを故意に無視してはいなかっただろうか？ <br><br>「百科事典棒」をイデア論の一つの例として出したわけだけど、「Unity Capsule」もまた、極めて限定的な時間と空間の中に映し出される、美しき世界のメタファーをめざしていたことを。<br><br> 人間のプレーヤーたちによる演奏に、ある程度の誤差とバイアスが現れるのはさけられない。<br><br> 自分の不完全さを自覚しながらなお、作品の美しさに近づくことはできないか？<br><br> この作品においては「譜面の厳密性」はプレーヤーたちを眩惑する、謎めいた罠。<br><br> 「最大の近似値」を目指しながら、極彩色の響きを再現することもできるのではないだろうか？<br><br> ファーニホウは「Unity Capsule」の世界を楽譜の上に固定させ、そのかたちをフルートでなぞろうとする無数のプレーヤーたちの影が不安定に揺らぐ。<br><br> 音楽のバトンが作曲家からプレーヤーへ、そして聴き手へとつながって閉じるリンクは、こうして何度も再生されてはまた拡がっていく。<br></p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-medium"><img decoding="async" width="735" height="413" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/DSC_0031-735x413.jpg" alt="" class="wp-image-5914" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/DSC_0031-735x413.jpg 735w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/DSC_0031-1024x576.jpg 1024w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/DSC_0031-768x432.jpg 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/DSC_0031-1536x864.jpg 1536w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/DSC_0031-2048x1152.jpg 2048w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/DSC_0031-750x422.jpg 750w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/DSC_0031-scaled.jpg 1920w" sizes="(max-width: 735px) 100vw, 735px" /></figure></div>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ソロコンサートへのメモ＃６</title>
		<link>https://kinowakidogen.com/blog/5882</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[kinowakimidori]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 09 May 2020 15:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[blog]]></category>
		<category><![CDATA[works]]></category>
		<category><![CDATA[演奏会情報]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://kinowakidogen.com/?p=5882</guid>

					<description><![CDATA[「純粋な譜面審査」とは？ 「Unity Capsule」への序章」 権威ある日本音楽コンクールの作曲部門が、本選会での演奏審査をしないことに決め、その理由として、より「純粋な譜面審査」をするため、という言葉が使われて物議 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<h2 class="wp-block-heading">「純粋な譜面審査」とは？</h2>



<p class="wp-block-paragraph">「Unity Capsule」への序章」<br><br></p>



<p class="wp-block-paragraph">権威ある日本音楽コンクールの作曲部門が、本選会での演奏審査をしないことに決め、その理由として、より「純粋な譜面審査」をするため、という言葉が使われて物議を醸したのがだいたいおととしの今頃だった。<br><br>客観的に見て予算の問題でそうなったのは明らかだったにも関わらず、審査委員長の公式な見解として（建前にせよ）「演奏家たちによる実演は、譜面の厳密性を削いで、人間的なバイアスをかけてしまう」というようなコメントが出されたから、それが音楽家たちの神経を逆撫でして火に油を注いだ、というような一連の出来事だったと思う。<br><br>現在でも譜面審査のみで作曲のコンクールが行われているとしたら憂慮すべきことだが、それはまた別の話とする。<br><br>自分としてはこの騒ぎで「楽譜」というものの、特にクラシック-現代音楽に対する、人によって微妙に見解を異にするその温度差などを含めた位置付けや存在感が浮き彫りになった、ということを実に興味深く感じたものだった。<br><br>「楽譜通りに演奏する」というのが西洋クラシック音楽の大前提であり、「楽器が出来る」というのは常に「楽譜の読み方を知っている」ということとセットでないと認められないことになっている。<br><br>楽譜をある程度「即座」に、ある程度「深く」読める、「ソルフェージュ」と呼ばれる反射運動的な能力を共有していれば、作曲家は自分の意図を演奏者にすぐに伝えることが出来るし、知らない人間同士でもアンサンブルが出来て短時間で音楽を成立させられる、という意味では「楽譜」は強力な道具である。<br><br>その一方でクラシック音楽においては、すべてが楽譜に書かれているわけではないから「作曲された背景を知る」ということがレベルの高い解釈につながる、ということになってきもする。<br><br>「当たり前すぎることは書かれない」としたら、「楽譜通りに演奏する」ことでロボットのような演奏が生まれてしまうことを防ぐために、時代と地域に基づくローカルな背景の検証で演奏を補完することが必要になる、というのは「音楽」と「楽譜」をめぐる、矛盾めいた面白い文化である。<br><br>また、クラシック以外の音楽においては、ほぼ例外なく「即興演奏」が使われることも思い出しておきたい。インド古典音楽しかり、フラメンコしかり、ジャズしかりetc..<br><br>「即興」が前提になっていれば、演奏に生き生きとした表情や闊達さを与えるためのハードルはぐっと低くなる。こう考えるとひたすら「楽譜どおり」に演奏されるような音楽が、実は世界的に見れば例外的であるのがわかってくる。<br><br>そこで「クラシック音楽」の最高学府にして代表的な見解の表明者ともいえるパリコンセルヴァトワールは、いち早く「即興演奏」の授業を取り入れる。<br><br>即興演奏の経験を経た後に「楽譜どおり」の世界へ戻ってくることで、より高度な演奏感覚を獲得できるかもしれない。<br><br>闊達さの欠如を埋めるため、教育課程の中へ「体験的に」即興演奏を取り入れているとしたら、これもまたなんという矛盾でアクロバチックなやり方だろうか。<br><br>このようなことは、数多ある例のほんの一部であり、クラシック音楽をグローバルに広めるために「楽譜通りに演奏すればよい」という、一見わかりやすい方法を採用した人々は、結局のところ「楽譜」と「音楽」の間に生まれがちな矛盾と齟齬を埋めることに苦心して、ありとあらゆる努力を注ぎ込むことになったんではないだろうか？<br><br>文学や美術、演劇などの表現者たちが、「百万言をもってことばにならない気分を表現する」とか「写実性や構築性を捨てて、ドリッピングや筆のいきおいで絵を描いてみる」とか「わかりきった感情をことばではなく、わざわざ踊りで表現する」というようなことをするとき、彼らには「抽象表現に向っている」という強い意識がはたらくと思われる。<br><br>かたや音楽家たちが仕事をするとき「抽象表現をしている」というような意識は持ちにくいものである。<br><br>この「無自覚さ」は「楽譜に沿って忠実に演奏する」という、訓練された通りのルーティーンがもたらす感覚と思われる。<br><br>作曲家たちの仕事ですら、ひらめいた着想を楽譜にしていくのは、まるでレンガを積むような単調さと言えないこともない。<br><br>これほどシンプルでわかりきった行為はないのである。<br><br>しかし、画家や小説家や俳優たちからしてみれば、それでも「音楽」というのは彼らがやっているどれにもまして、高度に抽象的な表現である。<br><br>モーツァルトのソナタであれ、ジョン・ケージの前衛音楽であれ、それが「音」という曖昧なものの組織である以上は。<br><br>アカデミックな作曲の世界では「エクリチュール」（書法）という言葉が使われるが、これもまた文学や哲学の世界からの借り物のことばなのであり、音楽行為がもともとは「ブラックボックスに手を突っ込んで、形ならぬものと格闘する」ようなことだったと思い出してみるなら、「楽譜」はそれだけでは「聴きて」に届かないことがはっきりしてくるのではあるまいか。<br><br>文字によるエクリチュールは読み手に直接はたらくが、楽譜はそうではないからである。<br><br>「「音楽」は「楽譜」という上位の抽象表現を「演奏」に落とし込むことで成立している。西洋音楽の特殊なところは、作曲家が熟考して作った楽譜をプレーヤーたちがありとあらゆる努力を重ね、出来るだけ正確で、精度と質の高い「音」に形づくろうとすることで高い芸術性を持つようになったこと」<br><br>というような理解を、普通に注意深い聴きてであれば持っているものである。<br><br>そして以上のようなことを踏まえてさらに言わせてもらうと演奏に高い精度を求める、どんなに厳しい作曲家でも、生演奏によるある程度の「誤差」は計算に入れて楽譜を作るものである。<br><br>どのくらい、あるいはどのようにそういった「緩衝地帯」あるいは「潤滑油」と言っていいような仕掛けを楽譜の中にもぐり込ませるか、というのが作曲家たちの技倆であり、個性でもある。<br>言い方を変えれば、作曲家たちはどこまでいっても、プレーヤーの肉体が追い付かないようなことは書けない。<br>「物理法則を無視することはできない」のである以上は「純粋な譜面の美しさ」だけが独立して存在することはあり得ない。<br>それはイデア論である。<br><br>コンピューターゲームの世界で、小さな子供が巨漢のファイターを吹っ飛ばすような。<br><br>あるいは、完璧に純正な三角形を現実に描くことは可能か？<br><br>完全に瑕疵のない姿を再現するのはどんな手段を使っても不可能ではないか？<br><br>以上のようなくどくどしい言葉を費やしてやっと「譜面の厳密性」なんて言葉にいきり立って反応した、経験ある音楽家たちの肌感覚の何百分の一かが説明できるか出来ないか、といったところである。<br><br>少なくともこれが、木ノ脇が「楽譜」と言うキーワードを通して音楽を考えたときのことばで、次回は以上の見解をもとにBrian Ferneyhough「Unity Capsule」 を考えて見たいと思います。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<div class="wp-block-image"><figure class="aligncenter size-large"><img decoding="async" width="797" height="515" src="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/80a2bfb688bf99c74f074224bfb5a414.png" alt="" class="wp-image-5893" srcset="https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/80a2bfb688bf99c74f074224bfb5a414.png 797w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/80a2bfb688bf99c74f074224bfb5a414-735x475.png 735w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/80a2bfb688bf99c74f074224bfb5a414-768x496.png 768w, https://kinowakidogen.com/wp-content/uploads/2020/05/80a2bfb688bf99c74f074224bfb5a414-750x485.png 750w" sizes="(max-width: 797px) 100vw, 797px" /></figure></div>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
